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【短編】わたしはただ、ブラックコーヒーが似合う人になりたいのだ

   子供の頃、朝起きてまだ布団に潜りながら、よく焼けた食パンの匂いとまだ飲めないコーヒーの香りを嗅ぐのが好きだった。とは言っても、わたし自身はパンは焼き色があまり付いていないのが好きで、その匂いの正体はもっぱらお父さんのものだった。せっかく自分の布団から出てきたのに、和室に敷かれたままのお母さんの布団に再度飛び込んで、朝食を急かされるのがルーティン。まだ高い位置にあるテーブルには、ちょうど良い焼き色のパンとプライベートブランドのチョコクリーム、ヨーグルトとバナナがあった。
 飲み物は、自分で作る。わたしは、昔からココアが大好きだった。アイスもホットも好きで、牛乳だけ飲むのは苦手だったのに、ココアは絶対にミルクココアじゃないと許せない。大さじのスプーンに山盛り一杯。そこになみなみと牛乳を注ぐ。しっかり混ぜないと粉がダマっぽくなるけど、口の中でパサつくそれも好きだった。
 パンに塗るチョコクリーム。お父さんにもお母さんにもいつも塗りすぎだと怒られていた。それでもわたしは、食パンの表面が真っ黒になるまでクリームを塗ったくった。チョコまみれのパンを齧り、濃いミルクココアで流し込む。虫歯にならなかったことは、両親の懸命な育児の勝利だと言える。バナナはお父さんかお母さんと半分こ。ヨーグルトに付属していた砂糖を怒られないギリギリの量でかけて、バナナヨーグルトで食べた。テレビにはいつも、かしこまった顔のキャスターが映っていた。暑い夏の日でも、寒い冬の日でも、彼らは大層なスーツに身を包んで、凄惨な世界情勢を読み上げては白々しく一人一人に出来ることをやろうと呼びかける。伝わってくるのは、この国が平和だということだけだった。
 お父さんが仕事に向かう。玄関までお見送りするのは当たり前だった。ある日、お父さんに手渡ししようとビジネスバッグを持ち上げた時のあの重さ。それをひょいと持ち上げ、お母さんとわたしにハイタッチして出ていく姿はあまりにも大きかった。

 玄関前の、忘れ物チェック。ハンカチ、ティッシュ、給食袋、体操着、教科書。ランドセルの底に、昨日締め切りのプリントと、微妙な点数が点けられた藁半紙わらばんしがグシャリと入っていたけどそれは言わない。ビリビリテープの靴を装備して振り向くと、お母さんが立っている。これもいつもと同じだ。

「いってらっしゃい、気をつけて」








 6時3分。早起きは三文の徳らしい。が、特段それを狙いたいわけもなくただ暑くて熱気に起こされただけだ。もう5年以上は使っている首元どころか全体がヨレヨレのシャツは、じっとりかいた汗で気持ち悪かった。最近ずっと、起きがけはフラつく。鉄分が足りていないのか、この湿気にやられているだけなのかはわからない。無理やり着ている物を全部脱いで、その足でシャワーへ。冷水を息を吐きながら全身に浴びる。頭の近くを彷徨っていた意識がグッと脳みそに吸い込まれるように、ようやく覚醒し、タオルで雑に水分を取る。ドライヤーは、嫌いだ。前まで濡れた髪を乾かしたことなんて無かったけど、どうやらこの世界は濡れた髪は乾かさないといけないらしいから使ってやる。さっき流した汗が、またすぐに体の内側から溢れてきた。これも全部、ドライヤーのせいだ。
 そのままポッドキャストで適当なイギリスのニュースを流す。誰かの喋っている声は聞きたいけど、その内容を知りたいわけじゃない。早口でまくし立てられるポッシュな外来語はそんな意味でちょうど良く、中継先のコックニーアクセントはポテンシャルの高いBGMだと思っている。
 窓を開けると、向かいの家から声が聞こえる。お母さんの、子どもを急かす声。多分男の子二人兄弟で、一人はまだまだぐずっているようだった。朝から彩度の高いバラエティ番組の音声と、ゲーム形式で朝ごはんを食べる子どもたち、昨日の洗濯物が出ていないことに気づくお母さん。彼らの姿を見たことはない。でも、止まらない生命の輝きが、薄いカーテンを揺らすだけの窓からたくさんたくさん入ってくる。
 お湯を沸かして、白湯さゆを飲む。朝から白湯を飲む人間なんてみんな嫌いだと思ってたのに、そっち側にいる自分がなんだかおかしかった。ヨーグルトに、グラノーラとバナナ。もう砂糖は付属していない。分け合う相手のいないバナナは、多分わたしが一人で食べる。
 白湯を飲み終わると、すぐコーヒーを淹れる。ココアを飲む機会はすっかり減って、大人の飲み物だと思っていた真っ黒の苦水を中毒のように飲むようになっていた。チョコクリームを塗る対象物は、朝食のラインナップに入ってすらいない。
 先の展開が丸わかりの小説を開いて、文字を追う。つまらないとわかりきっているものに行間など存在せず、ただ作業のようにページを捲る。20分、ノルマ的に読み終わるとテレビをつけチャンネルをニュースに合わせる。誰もジャケットは着ていない。でも、紛争地帯やテロ、センシティブな内容になると何故かジャケットとネクタイを締めていた。くだらないと思うけど、世論よろん様に迎合げいごうすることはこの地球を生き延びるために必要なのだと知っている。リモコンでテレビを黙らせると、着替えて身支度をする。

 もう窓の外からは、賑やかな声は聞こえない。7時50分。向かいの家のお母さんはきっと、朝の大仕事を終えたところだ。ふと今日がゴミ出しの日だということに気づく。ホコリと髪の毛は、掃除しても掃除してもいなくならない。さっとゴミ袋を結んで、玄関へ。忘れ物チェック。ハンカチ、ティッシュ、水筒、定期券、化粧ポーチ、ケータイ、資料、パソコン。確認すると、パンプスに足を入れ、スカートのすそをなおす。ビジネスバッグを片手で持ち上げると、もう片方の手でゴミ袋を掴む。振り向くと、誰もいない殺風景な部屋があった。いつもと同じだ。


 何も言わずに、わたしは家を出た。

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