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【短編】薄靄の住民

   6時38分に上野駅に到着、そのあと5分待って山手線に乗車。私は、スマホの乗換案内アプリの表示を覚えて、またSNSの画面に戻る。帰宅ラッシュの時間はいつもこうだ。帰りのタイムラインは頭に入っているものの、軽微けいびな遅延やその他の要因で使う路線が変わったりするので、乗り換え駅に着く少し前に毎回確認している。今日はホームドア点検とかで、約2分から3分の遅れだ。
“———お客様にはご迷惑をおかけしており、誠に申し訳ございません。まもなく上野、上野———”
 相変わらず律儀すぎるアナウンスをイヤホン越しに聞き流し、よくわからないダンスを踊っている美女とイケメンたちをスクロールしていく。美麗びれいな人間を次々に見られる素晴らしい時代だが、同時に大量消費されていくその人たちを見てなんだか申し訳ない気持ちになってくる。私はこの思いの置き所に困り、とりあえず《いいね》を送ることにした。三つ前の動画で踊っていた人の顔は、もう思い出せない。
カタン、カタン。軽い左右への揺れが、駅に着いたことを知らせた。


 次の線に乗り換えるには、ホームの端っこまで歩かなければならない。人混みに揉まれながら、ゆっくりと進んでいく。こんなに狭い空間にいてもスマホから目を離さない人があまりに多い。そんなに大切なことがその四角い箱に詰まっているのだろうか、と思いつつ自分もその一人だから何も偉そうなことは言えない。

「大丈夫ですか!僕の声聞こえますかー!」

 急に聞こえたその声に、弾かれたように顔を上げた。声のした方を見ると、三人ほど集まっていて、どうやら倒れた人がいるようだった。三人は突然の出来事に驚きつつ、できる対応をしようとしていた。それを横目に見ながら、私はそのまま乗り換えに向かう階段へ進んだ。


 階段を抜けると、異常な人口密度は解消され、複数ある乗換口に散り散りになっていく。私も目的の場所まで行こうとするが、どうにも心に残ったモヤモヤがあった。さっきの人は、大丈夫だろうか。何か、あの時することがあったのではないか。いや、でも私が気づいた時にはすでに三人大人がいたし、あれ以上人数がいても仕方ないし。それでも、もしかしたら私しか気付けない違和感とか、駅員さん呼ぶとかも、出来ることとしてそこにあったのではないか。そんな思考が頭をぐるぐるし続ける。

「…ああもう」

結局、降りてきた階段を駆け足で戻り出した。

 戻ったらそこにはすでに複数の駅員と担架たんかがあった。見ると倒れた人の意識はあり、会話も本人が出来ていて、事態の収集はほぼついたと言っても良い状態だった。あそこまできたら、あとは駅員の部屋で少し休んで誰かに迎えにきてもらったり病院に行ったりの段階であるから、対応をしていた一般の人も役目はないと思う。それは無論、私がいても特に意味はないということだった。
 これ以上ここにいてももう意味はない。良いことはしていないが別に悪いことをしたわけでもない。なのに私の胸には虚しさと情けなさがこびりついていた。それの剥がし方はわからないけど、とにかく帰ろうとさっき来た通路にまた戻ることにする。電車が来ていないタイミングの階段は人が少なく歩きやすい。早足で逃げるように降りていき、通路に出る。一呼吸おいて進もうとすると、前から突然声をかけられた。

「さっきのすよね」
「へ」


目の前に立っていた若い男子学生は、突然そんなことを言ってきた。一瞬なんのことだかわからず、変な声が出る。

「いやだから、さっきの倒れてた人みて戻ってましたよね」

目の前の男は、どういう気持ちでその質問を私にしているのかが表情から見えなくて、ますますよくわからなかった。
「…そうですけど。それがなんですか」
尋ねると、なぜか彼は変に顔をしかめたきりで返事をしない。どういう了見か全く不明で眉を寄せると、ひとことポツリと言った。

「俺もです」

「え?…な、なにが」

「いやだから!俺もしたんです、見て見ぬふりを!でもやっぱりそれは良くないって、走って戻ったら全部終わってて。それで、別に悪いことをしたわけじゃねぇのになんかモヤモヤして、でももうすることもないからまた来た道戻ってって」

「…ああ、そうなんですか。」

 言うべき言葉が見つからない。彼が私にぶつけたことは、今さっきまさに私自身がしたことで、感じたことで、その行動も、感情も、説明しようとするにはあまりに不明瞭ふめいりょうなものなのだ。何かしようと思って、やめて、でもやっぱりやろうと思って、でももうその機会はなくて。チャンスの神様は前髪しかないとか、善は急げだとかみたいな極めてポジティブな行動理論ではない。ただ、人として、社会にうずまってる一人の存在として“何かすべきかもしれない”みたいな気持ちが漠然とそこにあるだけだ。

「誰かを助けるのに理由なんていらないじゃないすか」

 また、目の前の少年は突然言ってきた。人を助けるのに理由は、いらない。いらない。

「そう、ですね。そうでありたいと思いますが、なかなか」

「そうなんすよね。でも、わけわかんないけど、“助けなくてもいいや”って思っちゃう理由———いや、言い訳。言い訳はすぐ出てくるんす」

ああ、そうかもしれない。今回だけじゃない。いろんなことが、もしかしたら毎日起こっているような些細なことにでも、そんな“言い訳”をしているのかもしれない。誰かがやってくれる、自分がそこにいても迷惑だ、疲れてる、急いでて。その言い訳は決して悪いことじゃない。みんな自分の人生を生きるので精一杯だから。ただでさえ理由もなく早足で歩き、くそ、くそと呟きながら日々を過ごしているのに。他の人が助けが必要な時に、そんな思いがしがらみのように体に巻き付いて取れない。

「———あなたは、偉いと思います。私が若い時そんなふうに思ったことなかった。…いえ、今でも立派な人間になんかなれてないからこうなってるんだけど。」

「ああ、いやそんな」

沈黙が私と彼の間を巡る。

「…あの、すんませんでした。なんか変な声の掛け方しちゃって。なんか、同じ人がいるって思ったらつい」

「いやいや。こちらこそなんか、ありがとうございます———も変か。これからどうしてこうとかもないですけど、でもなんか、良くあろうとは思います、今日よりは」

しどろもどろ私がそう言うと、彼は軽く口角を上げて恥ずかしそうに言った。

「そうっすね。今日の俺たちよりかは。他の誰かよりかは、ちょっとでも」

ローファーを叩くようにして歩く後ろ姿を見送った後、私は山手線のホームへ向かう。さっきまでのモヤモヤは、完全に晴れ切ったわけではないけれど、少しだけ濃度が薄くなったような気がした。

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