意味は後付けできるから。。。
自分を見つめ直すきっかけはいつも他人から
さて、僕は今悩んでいます。
というのも「このまま生きていいのか」という重いテーマについて
先日、数人の友人たちとの集まりで長い時間語り合いました。
テーマは、たくさんあって
単純な思い出話や就活の報告、歴史、服、車、映画など軽いものから重いテーマまで夜から朝まで話していました。
その中で僕の心が揺れる話がありました。
「社会はこうあるべきだ」という話の中で、議論が落ち着いて、喫煙者がタバコを吸いに行っている間に僕はこういう発言をしました。
「みんな、優しいよね。俺はそんな自分とは関係ないことに必死に議論できない」
ちょっと言い方が変わっているかもしれませんが、ニュアンスはこんな感じのはずです。
これには、僕にも明確な言い分がありました。
僕には、社会をどうしたいとか、明確に自分がやりたいことがありません。
自分のやりたいことを真剣に一時期考え、それでも出なかったので、なぜないのか理由を考えたときにヒントになったのがマズローの欲求階層説です。
これはピラミッドの土台となる下の欲求がないと、上の欲求は出てこないという考えです。
自分のやりたいこととは、自己実現欲求に当てはまりでしょう。
おそらく、僕は人に認められたいという承認欲求で止まっているのだろう。
なぜ、承認欲求で止まっているのか、それは自分に自信がないからです。
そこで僕は、自分がどうしたら自信を持てるのか考え、自分が自分を認められるくらいの明確の結果、実績が必要なんだと考えました。
いくら自分のやりたいことをやればいいと言われても、承認欲求で止まっているうちは、そもそも自分が本当にやりたいことが分からないのです。
だから、これからの人生、まず、結果にこだわってやってみようとそう心に決めていました。
そして、話は友人たちとの話に戻りますが、
上に書いてあるようなことを友人に説明しました。
そこで自己実現、つまり自分がやりたいことが明確に決まっている友人が
「それはテイカーになっている」
という助言を受けました。
テイカーとは、ギブアンドテイクのテイク、つまり、もらうばかりの人になっていると言われたのです。
友人の話によると、結果を出している人はみんなギバー、つまり、与える側の人だと示唆されました。
そこらへんで数人の友人がタバコから帰ってきたので、この話は終わりました。
しかし、僕の中では、モヤモヤしていました。そこからの話もそのモヤモヤを抱えていたので、少し上の空でした。(そもそも時間も深夜で頭が回っていないというのもありましたが)
この心のモヤモヤは、なんなのだろうとそもそもモヤモヤの原因が分かっていなかった自分はその友人たちとの集まりを最初から反芻していました。
結局、分かったのが、自分がテイカーかもしれないというのがショックだったのかなと結論付けています。
結果を出している人なのが、ギバーなのは僕もわかっていました。
それは1人でできることは限られているし、人に与え、結果的に人に助けてもらえることが多くなるギバーが結果を残せるのは、とても理解できます。
僕は結果を残すこともギブだと思っていました。
ビジネスで結果を残すということは、社会で役立っているということだと思っていたからです。
それがテイカーだと言われたのがショックだったのです。
そして、疑問に至ります。
僕はこのまま結果にこだわる、という方針で生きていいのだろうか?
焦りが生む化学変化
この疑問は解決しないままです。
なぜテイカーではいけないのか、は自分軸にいくなら、自分を認められる結果がでないから。
しかし、僕は承認欲求で止まってしまっているので、ギブを与えた後、どうしても見返りが欲しくなります。
承認欲求を抜け出すには、結果が必要。
今は、こういうサイクルです。
今言える、結論としては、
結果を出すための努力を重ねること。
自分はいいことをしたという自己満足で見返りを期待しないギブをすること、つまり、1日1善。
あとは悩みながら、考えます。
普通、友人と話したくらいでは、ここまで自分自身の生き方について考えなおすことにはならないのですが、この友人たちとの集まりではそういう傾向にあります。
理由としては、
各々が自分の考えを持っていて、それが良い感じで対立すること
いつも6人の集まりなのですが、タイプが割と違うから議論が白熱したりします。
僕が特に気になるのは、僕の見立てで、自己実現に向かっているのが少なくても2人いるという点です。
この2人が議論の重要なファクターになっています。
自己実現に向かっている人は、周りの目を過剰に気にすぎがちな承認欲求で止まっている人と違う考えを持ちます。
自己実現欲求に行きついている人って、本当に少ないと思うので、どちらかと言うと世論としては例え、正しくても弱い。
けど、この友人グループの中では三分の一を占めているので、とてもいい塩梅の議論になります。
自分としてはいつもこのグループで集まると、焦りを抱きます。
自分は承認欲求で止まっていて、先に進んでいる同年代の考えを聞いてしまうから。
この焦りというのが、僕にとっては、自分の心を苦しめると同時に自分を変化させるきっかけになります。
良薬は口に苦し、的なことです。
苦しんでまでなぜ変わらないといけないのか?
素朴な疑問を自分に投げかけます。
なぜ変わらないといけないのか?
ぱっと答えるなら、今の自分が嫌で変わりたいから。
が答えでしょうが、少しひねって考えていきます。
僕は哲学が好きで、小説が好きです。
小説の中で純文学と言われるジャンルの作品には作家の哲学が作品ににじみ出ています。
有名な純文学作家、村上春樹の死生観に僕はとても同意しています。
それは
人は生きるたびに何かを失っていく
これは絶対的な事実です。
子供から大人になるにつれて、多くのモノを失った。
純粋さ、素直さ、明るさなど
大人になってもまだ失っていく。
それは体の衰えやプライドなど
悩めるのも若いうちだけだという話も聞きました。
悩むことさら、生きていくうちに失われていく。
死ぬときには何もなくなる。
年を重ねるたびに楽しくなくなる。
だから、おそらく現状維持ではダメで、変わらないといけない。
失っても失っても、新しい何かを手に入れて、違う自分になっていくことが大事なんだと思います。
これは、僕の好きで納得している考えに今の自分の考えをこじつけただけですが、意味なんて後付けでもいいと思っています。
とりあえず、自分が嫌で変わりたいと思っているから変わる努力をしてみる
そして、変わった自分にあそこで変わったのは、ここで意味があったんだと自分で後付けすればいい。
最後に
文章とは不思議なもので、「このまま生きてもいいのだろうか」という僕の悩みは文章を書くことで整理され、心のモヤモヤはどこかへ消えていった。
これも意味の後付けですが、このnoteを書いた意味があったということになります(笑)
久しぶりに自分のことについて向き合いました。
あまり心地の良いものではありませんが、必要なものだと思います。
自分にない価値観に触れて、自分について考え直すには、それは本ではなく、やっぱり人が必要なんだと今回で身に染みて分かりました。
最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。
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