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脱線日記「凧サーフィンをしている人はもはや車輪である」

・「自分は人に対してそんなこと恐縮してとても言えないな〜」と思うことを、ひとつの恐縮もなく自分に言ってくる人ばかりなので、今見えている世界は自分一人だけのものなのかもしれない。
「自分はそんな大層なこととてもじゃないけどできない」と思うことを、ひとつの躊躇もなくやってのけてしまう人ばかりである。以下同文。

・「スマッシュブラザーズ」が死ぬほど苦手だ。できればやりたくない。でも周りの同世代は全員スマブラをこよなく愛している。「スマッシュブラザーズ」が好きで、やりたくなる世界って、どんな色に見えるんだろう。そんなことを考えていたら、小学校が過ぎ、中学校が過ぎ、高校・大学・大学院が過ぎ、社会人も数年が経っていた。もうスマブラをやる機会がない、けど、未だに苦手だなと思う。根強い。

・先週末、とある岬に一人で旅行した。海岸沿いで、肌の焼けた若者たちが「凧を持ちながら風にのってサーフィンするやつ」に興じていた。
「凧を持ちながら風にのってサーフィンするやつ」を、彼らはどうして趣味化できたんだろう?と不思議に思う。どこであれをやる機会に巡り会えるんだろうか。大学のサークルとか?凧サーフィンサークルみたいなのがあるのかな。そもそもあれはなんていう名前なんだ。
用意するものもいちいちでかいし、準備も大変だろうし、天候も読まなきゃいけないし、それを楽しく遊べるようになるまでの練習量とかも考えると、趣味として高尚すぎる。それらを彼らは「楽しそうだから」でカバーしたというのだろうか。
私はハードルの高い趣味ができない。スマブラですらハードルが高いのだから、まして凧サーフィンなどもっての外である。スポーツも苦手である。“やってる”人と対等にやり合えるまでにかかる習熟の期間に耐えられない。その前に挫けてしまう。だから高尚な趣味ができる人を心底尊敬する。

・趣味には一種の「狂気」が必要だ。他の人から見れば「そこまでせんでも」と思う地点を遥かに飛び越え、丸い泥団子をさらに磨き上げてピカピカ球体にしていく作業なのだ。そこには経済性も富も名誉もへったくれもない。趣味人は無垢であり、忘却である。新しい始まりであり、遊びである。自らまわる車輪であり、自律運動であり、聖なる肯定である(途中からニーチェの引用である)。
凧サーフィンをしている彼らは、凧サーフィンをしている最中はもはや自ら回る車輪なのである。準備の大変さとか、練習量とか、そんなことを言っている自分は理性の犬であり、まだ自律する車輪にはなりきれていない。
ハードルの高さとか低さとか、そんなことを言っているうちはダメなのかもしれない。もっと狂気をインストールしなければならない。寝る前にウゴウゴルーガを観るとしよう。

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