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【夏の読書感想文🍉】『報道弾圧−言論の自由に命を賭けた記者たち』


本書との出会い

 「報道"弾圧"」という刺激に溢れたタイトルを冠する本書との出会いは、本書の主要な著者である北川成史氏からの紹介でした。言論の自由を記者と国家の関係性から描き出した本書のテーマをみた瞬間、すぐに読もうという気持ちになり、発売日を心待ちにしていました。

 直感的に惹かれた理由には、ジュマ・ネットの活動との共通性が高いと感じたからだと思います。国家が持つ権力は報道の力を締め付ける方向に走り、時には特権的に保持する実力行使にまで及ぶ姿は、活動地の政治状況とも重なります。

 今回は、本書に純粋な好奇心を持った一読者の視点と同時に、マイノリティの平和促進の活動を行う身としての視点を混ぜ合わせながら、その感想と気づきを書いてみようと思います。

共通する国家の反応

 複数のケーススタディを紹介する本書の構成を通しての学びは、「国家の反応パターン」があると思ったことです。国家に都合が悪い情報を明らかにしようとする記者に対し、国家はプロパガンダを用いた印象操作や、テレビ・ラジオなどのメディアに対しては放送免許の剥奪、踏み込んだ場合は記者の逮捕や拘束などの対応をとっていることがわかります。
 
これらのアクションは共通性が高く、力の行使には傾向が見られるのではと感じました。

 また、こうした国家の対応はジュマ・ネットが活動するチッタゴン丘陵地帯でもみられることであり、そうした面でも学びは大きくありました。特に、それぞれの事例の記者はどのような行動をとり、行動を選び取っていくのかといったことや、第三国のスタンスなどはアナロジー的に活動上の気づきにつながるものがありました。
 
 ただ一方で第三国の対応に関しては、リアリズム的な面が顕著に見てとれるケースもありました。

外交カードとしての人権擁護

 第三国の対応に関して、結論から述べると「国際社会は必ずしも倫理や規範だけで動ける訳ではない」ということを痛切に感じました。本書内でも事例が複数挙げられているとおり、各国は自国の政治上の優位性を保ち、利害関係を最適化しようとする力学がはたらくことを改めて認識することになりました。またコロナ禍以降、権威主義的な性格をより強める国家の例も示されています。

 それはつまり、現場で起きている事実の深刻さや人道上の危機の度合いは、必ずしも第三国の政治的スタンスの決定打とはならないことがあることを意味します。それは、わかっていたことではあるのですが、文字で可視化されて立ち現れると、やりきれない気持ちになります。
 
 一方で、そうした中でニュートラルな姿勢を保つことのできる存在が記者であり、市民であるという意義の再確認も浮き上がってきました。内政不干渉の原則はあるけれど、ある国家の領土内で深刻な人権侵害が発生していれば、それに対して声を上げることは必要だと考えます。なぜなら、領土内に居住する人々には直接的な影響が予想され、どうしても純粋な声を発することが難しいからです。それは、現地事務所を持つNGOや企業なども同様のジレンマを抱えていることが多く、難しい部分でもあります。そうした中で声を発することができるのは、領域の外にいる記者を含む市民であり、それは越境して活動する市民社会組織が発揮できる強みでもあると思いました。

当事者性と距離を持った第3の存在の可能性

 また本書ではテーマ化はされていないものの、、前項の内容に関連して第3の存在が頭の中に浮かんできました。それが、ディアスポラのネットワークです。

 ディアスポラはそもそも「離散した人々」という意味を持ち、もともとはユダヤ人の伝説が起源となっています。

ユダヤのリーダー、ゼデギア王は10年間メソポタミアの強大な帝国に対する戦いに二の足を踏んでいたが、その後突如、戦いを認めた。バビロニアの帝王ネブカドネザルは無礼な行動に対して情け容赦はしなかった。バビロニアの兵はゼデキアの目の前で息子を処刑。盲目とされたユダヤのリーダーは鎖につながれ、バビロンへ連行された。農民は土地を耕すためにユダヤの地に残されたが、軍隊の幹部、町民、祭司はゼデキアとともにバビロンに捕囚された。こうしてユダヤ人は神がモーセに告げた「約束」の地を捨てざるを得なかった。伝説では、その後彼らは永久に離散の民となる。

コーエン,ロビン(2012)『新版――グローバル・ディアスポラ』駒井洋訳、明石書店(明石ライブラリー150)[Robin Cohen (2008), Global Diasporas: An Introduction 2nd, n.p.,Routledge]。

 学問的には、ユダヤ人の歴史も複雑であり、多くのユダヤ人コミュニティは交易などのネットワークの増殖から生まれたものであり、強制的な離散によるものではないという指摘もされています。
 ただいずれにせよ、今日においてこの概念は幅広く適用されるようになり、移民コミュニティやその他のコミュニティを記述するためにこの語が使われ、拡大された定義が一般化してきています。(ちなみに語源は、聖書のギリシャ語訳、diaとspeirenという動詞が複合したものからきており、「分散する」「拡散する」「まき散らす」という意味を持ちます。)

 そのディアスポラは、本書で記述されるような国家の力の行使に対して、一定のインパクトを持つのではないかと想像しました。ディアスポラは存在自体がトランスナショナルである上に、もう戻れない(戻らない)故にニュートラルな立ち位置を保てる距離感を持っています。また同時に当事者性も持ち合わせていて、具体的には現地情報を仕入れる際にも綿密で現場ででのリアルな情報を持っていることも多いと想像します。実際、以前チッタゴン丘陵地帯からインドに移動してきた方々にお話を伺った際も、自身は地理的に離れてしまったものの、現地の様子は親戚、知人・友人など当事者のネットワークから詳細に得ていました。


インドでの聞き取りの様子。故郷の様子は綿密なネットワークで情報を得ていた。(プライバシーに配慮して画像を加工しています)



 そこから、もしマルチナショナルなディアスポラネットワークができたら、現地社会が変わるほどの影響力を生み出すのか、ということも考えました。現地に巨額の送金しているなどはまさに影響を与えそうですし、開発分野においてもディアスポラは、2000年代ごろから海外送金や技術移転を通じて出身国の開発に貢献しうる存在として注目されています(宮脇 2017)。ディアスポラネットワークが国際キャンペーンで連帯し、一定の国家がそれを認めたとしたら、国際的な会議やルールメイキングにつながっていくことは可能性があるのだろうか、そんなことが疑問(仮説?)として浮かんできました。

 ではその時、NGOの役割はその結節点になることなのか、運動を権利やルールメイキングのレベルにまで昇華する伴走なのでしょうか。ここはあまり抽象論に引っ張られても現実に作用しない感じもして、ディアスポラの具体的な実態を知っていくほかないなと思います。

感想:一人の市民として

 最後に、本書を読んだ一人の市民としての率直な気持ちを残すとすれば、どこかに憧れを持つ感覚を覚えたことが印象的でした。報道をもって事実を発信することは、政治上のリスクを抱えることであり、一見、それは絶望に思えます。しかし、政治上のリスクを抱えるということは、それだけ国家にとっての影響も大きいということを証明しています。

「それ(国家にとっての影響を与えていること)が希望である」と書かれた言葉が、非常に印象的でした。

 今後(または既に)、デジタルな領域にも国家の統制は迫ってきます。その影響はジュマ・ネットの活動上ではもちろんですが、日本国民としての生活の背後にも迫っていると、静かな危機感を胸に残して本書を読了しました。

 たくさんの事例を横断的に眺めることで浮き出てくる傾向や、記者が持つ理念、また翻って日本の姿を問い直す多様な視点を持った一冊です。ぜひご関心をお持ちの方はお手にとってみてくだされば嬉しいなと思いました。

文献情報

コーエン,ロビン(2012)『新版 ––––グローバル・ディアスポラ』駒井洋訳、明石書店(明石ライブラリー150)[Robin Cohen (2008), Global Diasporas: An Introduction 2nd, n.p.,Routledge]。
東京新聞外報部(2023)『報道弾圧 ––––言論の自由に命を賭けた記者たち』筑摩書房<ちくま書房 1741>。
宮脇幸生(2017)「アフリカにおける難民・ディアスポラのトランスナショナルな活動」人見泰弘編『難民問題と人権理念の危機 –––– 国民国家体制の矛盾』明石書店、pp.202-228。


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