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軽症うつ病の発症~哲学エンジニアのライフヒストリー(7)~

97年の4月から始まった京都大学大学院での暮らしは、3か月ほどして挫折を迎えることとなった。前回も書いたように様々な要因でお先真っ暗な状態になり、勉学も日常生活も手につかなくなった。そもそもハイデガーの「無」の哲学に格闘するという悪条件も重なっている。まさに、私は「虚無の淵」から転げ落ちようとしていた。

たまらず近所のメンタルクリニックをタウンページで探し出して駆け込んだ。飄々としたドクターが「軽症うつ病」と診断してくれたことにホッとした。当時の日記を振り返ると、激しい苦しみに苛まされた心境を殴り書きしており、すっかり老いて感性の鋭敏さを失った私から見ると別人のようにしか見えない。

後期からは休学することとなり、しばしの猶予が与えられたことにホッとするものの一進一退の状態が続き、状態が良くならない。何らかのきっかけをつかもうとして塾のアルバイトを始めたり、あるいは近くの禅寺に坐禅に通ったりしながらもがいてみるののの回復のきっかけが得られない。

初めての京都の夏で、大好きなプロ野球を間近で見ようと大阪ドームでのアルバイトをしてみたり、冬になれば初めて高校駅伝を間近で見ようと自転車で選手と並走したり、楽しみを見出そうと工夫はしてみたが、浮上のきっかけが得られない。

回復したかと思いきや、行動を起こしてみてちょっとした失敗をしては、回復不能のダメージを負ったと曲解しては落ち込むことの繰り返しであった。

クリニックで処方してもらったアモキサン(抗うつ薬)とセパゾン(抗不安薬)は欠かさず飲んでいて、これが命綱になってボトムラインはサポートされている感触はあったものの、私を包む不安が黒い雲のようになっていて日常生活を歩もうとする足を引きずり降ろそうとする感触があった。

初めて過ごす京都の冬はとても寒く感じた。北陸の人が何を言うのかとよく笑われたが、心細さもその感覚を後押ししたのであろう。今にして思えば、北陸の冬に備えた断熱と比べると京都の賃貸ルームは断熱性能が極悪であったこともその一つであろう。都市部の住環境は本当に貧しいと思う。

98年の春になり、一つの決断をした。転地療養を行うことにしたのである。


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