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お母さんの請求書

お母さんの請求書。
そんなタイトルのエピソードが、小学校のころの道徳の教科書にあった。

去年、息子が「学校の授業で、“お母さんの請求書”っていうのを読んだよ」と言うので、「今も同じのあるんだ」と驚いた。

あらすじは上のリンクが参考になると思う。
私としては、子どものころも、今思い出しても、少し腑に落ちなかった。
そのお母さんの行動は、少し意地が悪い気がする。
息子が書いた、手伝いに対する手間賃の請求書なんて、かわいいものじゃないか。お母さんがそれに対して「家事0円」の請求書を書くなんて、当てつけのようだ。息子に言いたいことあるならもっとストレートに言えばいいのに。

でも、30年近く経った今日、そのお母さんの気持ちがわかった。

私は今、仕事をしながら家事もメインでこなしている。
朝、出勤前に掃除や片付けをしている時に、娘はソファでスマホを触っている。掃除機のヘッドが通り過ぎる時に、足だけひょいと上げる。
夕方、帰宅した私が台所にたっても、子どもたちはソファでごろごろして、スマホ、タブレット、ゲーム機のいずれかに夢中になっている。夫はもちろん、まだ帰宅していない。
洗濯も買い物も、みんなが知らないところで私が管理・実行している。

何度か、協力してほしいと話したことはあった。夫にも子どもにも話した。
一時的に手伝ってくれることにはなる。でも、それはだんだん頻度が落ち、やがてなくなる。消極的なのだ。理由を尋ねると、私のやりかたがあるみたいだから、とか言われるのだけど、それはつまり、そこに介入していくほど積極的になっていないということだ。

私はホテルの清掃員さんや、レストランの厨房スタッフみたい。その恩恵を受ける人から見えないところで働く。しかも、私の場合、報酬は受けない。

ここ最近は、「みんなは家事が好きじゃない。私は料理も整頓も好きだからやってる。苦手な人に強要するのはよくない。みんな、家ではのんびりしたいんだし」などと思って自分を納得させていた。

でも。
好きだからやるのだとしても、私が貢献しているのは確かで、その貢献を認めてほしいのだ。
私の行為に関心を持ってほしい。
これは当然のサービスじゃない。

「お母さんの請求書」のお母さんの気持ちも、こんなふうだったのかもしれない。

それにしても、黙って請求書を差し出すなんてやり方はどうかと思う。
私は今日、夫と子どもたちに上に書いたような気持ちを伝えた。
そして、具体的な対応として、夕飯の支度の時、手伝うかどうかに関わらず子どもたちに台所に来て見ていてもらうことにした。姉弟の当番表を作った。

私が求めているのは、私の行為に関心を持ってもらうこと。
ありがとうって言うとか、手伝うとか、それもうれしいけれど、それ以上に、認知してほしい。

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