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抜群の英語コミュニケーション力、ニューオリンズ・ラスカルズ のバンジョー 、ボーカル担当 川合純一氏(その2)


はじめに


その1)の続きです。TOEFL Web MagazineのコラムFor Lifelong Englishに2009年に掲載した記事です。タイトルなど少々加筆・修正しました。

前回述べましたが、当初、For Lifelong Englishは色々な形で英語に関わっている人々をインタビューしました。筆者はその当時立命館大学生命科学部・薬学部で「プロジェクト発信型英語プログラム」を導入し、担当責任者として多忙な生活に追われ、息抜きのために大阪のライブハウスNew Suntry 5に行き、ニューオリンズ・ラスカルの演奏を聴きに行きました。

ラスカルズはアメリカで演奏し現地のニュースでも取り上げられ、世界各国のミュージッシャンと交流を持ってきました。当然英語は欠かせません。バンドリーダーの良一氏にこの連載コラムの趣旨を伝えたところ、バンドきっての英語コミュニケーターの川合純一氏をご紹介いただきました。川合氏は快諾して下さり、ライブ演奏(夕方)がある土曜日の午後に氏の行きつけのレストランでインタビューさせていただきました。現 Educational Testing Service Japanの根本斎氏オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・クラブ(ODJC)の事務局長口羽巌氏も同席しあっという間の楽しい楽しい2時間でした。聞き手はは筆者でインタビューの最後部に感想が付されています。


河合純一氏、口羽巌氏の紹介


鈴木:
今回は大阪在住で、ニューオリンズ・ラスカルズ(New Orleans Rascals)のバンジョー奏者をしている川合純一氏と、ジャズ愛好家のた めのクラブ、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・クラブ(ODJC) の事務局⻑を務めていらっしゃる口羽事務局⻑にお話を伺います。ジャズ の流れる大阪・梅田のニューサントリー5で、ライブ前の貴重な時間をい ただきました。私とは同年代で、私も学生時代からジャズが大好きですか ら、京都に引っ越してきてから、何回もラスカルズの音楽を聴きに行って います。ラスカルズの音楽を通じた国際交流、そして生きた英語について お話を伺っていきます。まずはODJCの事務局⻑をしていらっしゃる、口 羽巌さんです。

口羽: ODJCはニューオリンズの音楽を愛する方が会員になって応援するという 形のクラブで、その事務局をしています。

鈴木: もともと口羽さんはどういうご縁で事務局⻑をされているのですか。

口羽: 昔からジャズが好きで、それでたまたまラスカルズと出会い、音楽性もい いし、人間性もいいし、色々と可愛がってもらうようになって、それで大 分前から僕と嫁でお世話させてもろうてます。

鈴木: ラスカルズと出会って何年くらい経っているんでしょうか。

口羽: 僕がラスカルズを知ったのは20歳くらいの時ですので、40年くらいのお 付き合いですね。その頃はまだ学生で、ラスカルズはまだそんなに上手く はなかったんですけれど、演奏自体にブルースが表現されているところが 魅力なんですね。それが付き合いの基だと思うんです。本格的に事務局を お手伝いして15年になります。

ラスカルズの歴史

鈴木: そしてニューオリンズ・ラスカルズの川合純一さんです。今回インタビュ ーをさせていただくことになったわけですが、私もODJCの会員で、去年 ラスカルズの川合さんと木村陽一さんの歌を聞いて、これはもうお話を聞 きたいと思っていたのですよ。川合さんは関⻄学院大学時代からディキシ ーランド・ジャズバンドのバンジョープレイヤーとしてご活躍されていま すが、大学の音楽クラブだったのでしょうか?

川合: 関学に軽音楽部がありまして、そこでニューオリンズジャズ・バンドをや っていました。そして大学4年の1963年に、ジョージ・ルイスが初めて来 日したんです。自分がやっている音楽のホンマもんのミュージシャンがド ーンと来て、大阪でまる3ヶ月間、もうなくなった新大阪ホテルっちゅう ところで、毎日のようにコンサートですよ。僕たちは朝からホテルに入り 浸りましてね。ジョージ・ルイスが当時63歳。たいてい朝からロビーで じっとしているんですよ。だから、なんていうかな、少しでもそばにいた いって毎日通ってね。普通はステージでしか見られないのに、ホンマもん が来てね、直に話す。普通のおじいさんですよ。


(ニューオリンズ・ラスカルズ バンジョー、ボーカルの川合純一氏)

鈴木: ジョージ・ルイスは、ジャズマンにとっては神様みたいな存在ですよね。

川合: ええ、僕たちがやってる音楽の師匠とも言える人です。

鈴木: そのジョージ・ルイスが1963年に来て、厚生年金ホールでコンサートを して、当時彼は多分、アメリカではあんなすごいホールで演奏したことは なかったんじゃないでしょうか。同時に川合さんたちのように、もう彼を 神様のように崇めている学生さんに会い、彼も感激されたんじゃないんで しょうか。

川合: 私たちのコンサートにも来てもらってね。そのとき、僕はやっと22歳で すよ。河合良一さんは25とか26歳で、63歳のジョージ・ルイスにとって は子供みたいなもんだから、そりゃあもう嬉しかったでしょうね。その音 楽を彼の年齢まで、いや越えるまでやってるわけですから(笑)。

鈴木: たしかジョージ・ルイスは68歳で亡くなっていますよね。

川合: そう68歳で亡くなりました。でもジョージ・ルイスが日本に来たから、 初めてニューオリンズには僕らも行けるもんだと気付いたんですよ。僕ら はニューオリンズはそんなに近いと思ってないし、聖地だと思っていまし たから。ジョージ・ルイスも誰かに日本においでと言われたから日本に来 た。そこで僕は河合良一さんと、最初は二人だけでニューオリンズに行こ うとしてたの。そうしたらだんだん増えてきて、バンドで行くなら色々な ところへ行こうということになって、ハワイ経由でサンフランシスコ、ロ スアンジェルス、それからニューヨーク、ワシントン、トロント、シカゴ などをぐるっとひと月で回ったんですよ。するとそれぞれの場所にバンド がいますから、ジョージ・ルイスが色々紹介してくれて、そこに着くと僕 たちの知らないジャズクラブの人がみんな家に呼んでくれる。その時に 100人くらい友達が増えました。だんだん亡くなっている方もいますが、 まだ生きておられる人もいます。だから1963年にジョージ・ルイスが日 本に来なかったら、こういう人生はないんですね。こんな友達もいない し、僕たちもニューオリンズ・ジャズやってないし。

鈴木: ジョージ・ルイスが来て人生の流れが変わったんですね。
川合: そうそうそう。行ったらそこで色んな人に出会って、これが膨らんで、今

ジャズを楽しんでいるということです。

ニューオリンズの思い出

鈴木: 私は1968年から78年までアメリカにいたんですけれど、一度どこかのニ ュースで見たことがあるんです。アメリカでも既に消えかかった音楽を、 若い日本人のビジネスマンがやっていると。

川合: どこにおられたんですか。

鈴木: 68年はニューオリンズのあるルイジアナ州バトン・ルージェに少々、そ れからカリフォルニアのサンタバーバラに少々、そしてサンフランシスコ で1972年まで、その後は1年ハワイに、そして最後は首都ワシントンに5 年いました。サンタバーバラで全国版のニュースを見ていました。ジョー ジ・ルイスが68年に亡くなった時、これが最後のニューオリンズ式のお 葬式になるだろう、というニュースが流れました。その直後あたりのこと ですね日本人の一団のジャズメンのニュースに接したのは。多分ラスカル ズだと思うんですが。

ラスカルズ、アメリカメジャーネット局で取り上げられる

川合: ああ、僕たちはテレビにも出てたから。

口羽: 1回目に行ったときはすごいニュースだったよね。その頃は木村陽一さんがアメリカに留学してて。

鈴木: 木村さんはどちらに留学されていたのですか。

川合: 松下電器で音響の仕事をしていて、パデュー大学に留学したんですよ。就 職して、パデューで猛勉強して、パデューでバンドに入って(笑)。そし てニューオリンズ・ジャズを聴いてね。

鈴木: ああ、そうでしたか。みなさんはそれぞれお仕事を持っていらっしゃっ て、それでいて土曜日はニューサントリー5で演奏を続けていらっしゃる んですね。40年間欠かさずにずっと。

川合: ラスカルズ自体は48年ですね。店での演奏は40年。みんな自分の仕事を もっていて、いわゆる両立をしています。ラッキーなことは転勤がなかっ たこと。木村さんは2年間留学に行きましたから、その間はラスカルズに 若い子を入れていましたけど。

鈴木: この近辺でそれぞれに仕事をされていたので、バラバラになることがなか ったんですね。お一人をのぞいて、全員オリジナルメンバーだと聞いてい ます。

ラスカルズ・チャールストンのJapan Weekに招待される

川合: ええ、ピアノの方が亡くなりました。あとのメンバーは結婚する前から音 楽をやっていますから、女房もブーブー言いません。結婚してからだった らブーブー言うでしょうね。そうなったらまずは家族にならないじゃない ですか。だから“ジャズ Widow(ジャズ未亡人)”って言ってるの。お父 さんはジャズに行ってもうて、家にはいないと(笑)。結局このバンドで は7回くらいアメリカに行きましてね。何回目かは、チャールストンでジ ャパン・ウィークっていうイベントがあるということで、国だか政府から の招待でした。日本の文化、茶道、空手、日本舞踊なんかを紹介するんで すね。その中になぜかジャズ。それで僕ら行ったんですよ。日米知事会だ ったかな。日本の知事とアメリカの知事が3年に1回くらい集まるんで す。まぁ懇親会ですよね。その時はジミー・カーターが知事でした。

鈴木: ああ、ジョージア州の知事だった時ですね。

川合: そのときは将来大統領になるなんて全然思わなかったけれども。ま、そう いうことで僕たちはニューオリンズに行ったりしました。その時の日本の キャッチフレーズが、「石炭で有名なイギリスのニューキャッスルに石炭 を持ち込んだ日本が、ニューオリンズにニューオリンズ・ジャズを持ち込 んだ」というものでした。それが快挙だということで毎日のように新聞に 出て。飛行場までチャーターで。ニューオリンズみたいな不安なところ に、なんで行かなあかんのかなと思いましたけど、ちゃんと背広を着て ね。当時はセンセーションだったでしょうね。

ラスカルズあのPreservation Hallで毎日演奏する

鈴木: プリザベーション・ホールでも演奏されたんですか。

川合: ええ、毎日していました。

鈴木: そうですか。あそこでやるのは相当の名誉ですね。プリザベーション・ホ ールと言うのは、ニューオリンズ市が、トラディショナル・ニューオリン ズ・ジャズ、言ってみればディキシーランド・ジャズなんだけれども、そ れを保護するために、ジョージ・ルイスなどのミュージシャンたちを集め て演奏させた所で、そういう文化を受け継ぐ場所なんですよね。ですか ら、そこに行くと、今でも聞けますよね。日本人はね、ディズニーランド に行くのもいいけれども、ニューオリンズに行ってプリザベーション・ホールに行かないと。私はアメリカに10年いたけれども、アフリカ系アメ リカ人の人たちにニューオリンズ・ジャズとかジョージ・ルイスを聞いた ことがあるかと言っても、殆どの人が知らないと言う。ルイ・アームスト ロングあたりは知っているんですけど、アームストロングの原点もここに あることを知らない。私らの方が良く知っているくらいですね、プリザベ ーション・ホールは昔のままで、ものすごく古いし、一見みすぼらしい。 でも生きています。歴代のジャズメンの息吹を感じます。

川合: そうそう。だからニューオーリンズ・ミュージックは全部がニューオリン ズにあるわけではなくて、ドイツとか、オーストラリアとか、こういう僕 たちと同じような時代に育った人たちが継承しているんです。でもその人 たちが亡くなったら終わりですね。

鈴木: 次の若い世代はいないんですか。

川合: 次の世代は非常に難しいですね。

鈴木: 去年の神戶ジャズ・ストリートに行きましたけど、若い人たちも来ていま すよね。

川合: ま、我々より10歳くらい若いだけですけどね(笑)。

口羽: でもやっぱり、スピリットっていうんですかね、今はそれが薄くなってい る。手ごたえが薄くなっていて、日本もそうですね。グループによってわ からないけれども。ラスカルズは黑人のホントの姿を見たからいいんでし ょうね。それと謙虚さ。僕たちはまだまだって言う感じです。

川合: やっぱり、まずは僕たちがどんなことができるか、次の世代にどんな風に 伝えていくか、精一杯するしかないんですよ。幸い10歳年下の連中がい ますから。その次の10歳下がガンバらにゃいかんのです。

インタビュー後に演奏を楽しむ


(ラスカルズ On Stage 根本氏撮影)

河合良一さん(クラリネット、リーダー)、志賀奎太郎さん(トランペット、ボ ーカル)、福田恒⺠さん(トロンボーン)、川合純一さん(バンジョー、ボーカ ル)、尾崎喜康さん(ピアノ)、石田信雄さん(ベース)、木村陽一さん(ドラ ムス、ボーカル)メンバーの演奏以外の活動

鈴木: 私は1968年にアメリカに行ったときに、ジョージ・ルイスを聞きにニュ ーオリンズに行きました。24歳のときです。ジョージ・ルイスを聞きた いと思って、まずニューオリンズに観光ビザで行きました。それまでルイ ジアナ州立大学で英語を勉強していたのですが、もう留学しちゃおうと思 いまして。だけど68年だとジョージ・ルイスはほとんどもう演奏してい なかったですね。でもプリザベーション・ホールに日本人が一人いて、そ れはもしかすると木村さんかなと思っているんですよ。

口羽: 木村さんは学生のときに向こうで録音していますからね。もしかすると。

鈴木:それと、実は私のすぐ上の兄がこの音楽が好きで。静岡にいたんですけ ど、ずっとラスカルズを聞きたいと言っていましたが、聞か ないまま亡くなりました。大阪に行こうって言ってたんですけれどね。

口羽: 東京に行くとなんていうかな、やっぱり関⻄人と東京人とで差がありまし てね。東京の方はみんな楽器上手いんですよ。だけどここまでブルースは できない。それがやっぱり、東京人と大阪人の違いというのがあるんです よね。

鈴木: 東京はすぐとっかえひっかえになっちゃうんです。でも大阪は建物でも古 いものを大切にしますよね。そういう文化があって、1回自分のものにす るとずっと大事にし続けるんですね。そういうのを感じます。

口羽: 心斎橋に河合良一さんのお店があるんですよ。マホガニーホールと言っ て、レンガ張りで、ニューオリンズの昔ながらの建物のような。今度ぜひ いらしてください。

鈴木: そうですか、是非一度。マホガニーホールと言うのは、何ですか。

口羽: 河合さんが経営している会社のホールセクションです。貴金属の卸売りな んですけど、外国人ミュージシャンが来たりすると、そこでパーティをす るんです。若い子が楽器を持って行ったりすると教えたり。こういう音楽 の出演料って、どうしてもギャラが少ないんですよね。だからそれへの補 助と言う意味合いもあって、そこで食事などをしながらパーティをして、 寄付を募るということをやっているんです。あとはハンク・ジョーンズっ てご存知かな、ピアニストの。あの人がこの前来たんですけど、ハンク・ ジョーンズはニューオリンズ・ジャズ知らないんですよ。それで川合純一 さんが一緒に演奏しながら全部キーを教えてね。そういうこともありま す。

鈴木: そうですか。そういう人を呼ぶときは、口羽さんが色々とお世話をされる んですか。

口羽: いや、そういうのはミュージシャンサイドがやって、僕はお客さんの方に 向いてるんです。それでルイスさんも言うように、ミュージシャンばかり でなく、聞くほうも、みんながファミリーなんですね。一度会ったら全部 ファミリー。

鈴木: ああ、私が感じたのはその精神だ。ここの人はみんなファミリーだ、みん な仲がいいよと言っているんですね。これはラスカルズならではの独特の 雰囲気ですね。

インタビュー後の鈴木の感想


昨年の晩秋の土曜日の夕方、演奏を控えていた川合さんに、梅田駅近く のお初天神通りのレストランで会いました。ラスカルズがライブを行う ニューサントリー5は目と鼻の先で、川合さんは演奏前にはここに立ち寄 り食事をするとのことでした。まるで、ニューオリンズのジャズマン が、プリザベーション・ホールで演奏する前に、フレンチ・クオーター のレストランで食事してからという雰囲気でした。バンジョーを演奏す る川合さんには何度も会いましたが、直接話をするのは今回が初めてで す。口羽さんに紹介していただくや、あたかも何年も前に知り合ったよ うな気軽さで話しをしてくださいました。私も川合マジックにはまった ようです。次から次に出てくるニューオリンズ・ジャズ、ジョージ・ル イス、ラスカルズの話の世界に引き込まれました。外国人のジャズメン も川合さんの心地よい英語の話に引き込まれ彼の周りにはたちまち笑い の輪ができるという口羽さんのコメントも頷けます。ジャズに賭けた⻘ 春の情熱が人々を魅了し、バンジョーを奏でるかのように自在に英語が 出てくるのでしょうか。ジャズがあり、そこから英語が湧き出てくるの でしょう。ジャズを奏で日英両語でジャズを語るバイリンガル・コミュ ニケーター川合さんによる、ニューオリンズ・ジャズ、ジョージ・ルイス、ラスカルズ、大阪ジャズ文化についてのドキュメンタリーは(その3)に 続きます。

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