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許すとか許さないとか

あるポッドキャストで、人を許す方かどうか、という話を聞いた。
何か失敗をした人がいたとして、相手の事情や能力を汲むと、怒っても仕方がない、その人はそれしかできなかったということが分かるから許せる。
カメラをその人の事情や能力というところまでズームすると許せる。
逆にものすごく引きでみると、その失敗自体、宇宙レベルだと何もなかったに等しい。
すごく寄るとすごく引くの真ん中に「許せない距離」が存在するという話。

自分は以前、人のことをズームしてみて、なんでも理解して怒らない人になろうとしたことがあった。
不可能だった。
なにせ、「人」というのが、日常で関わる人だけでも何人もいるので。
対して「私」は一人だ。
一人の頭脳で複数人の事情と能力を想像することはできない。
完全にキャパオーバーだ。
そして、想像できたとしてもそれは想像に過ぎない。
本当はその相手には失敗しないルートもあったかもしれないのだ。

その後私は気づいた。
結局、「許す」というのは、「許すか許さないか」選択しようとしている時点から、もう上から目線なのだということに。

相手の事情や能力などまったく考慮せずに、脊髄反射的に怒ることが、一番相手を対等に見ているという面もある。
神ではないのだから人の事情など想像できない、と認めることも大事だったりする。
相手はそれで傷つくかもしれないし、単に「これをすると怒られる」という情報を得るだけかもしれない。
我々は他者にとって、「こうインプットするとこういうアウトプットを出す」というただの箱になってもいい。
そこに複雑なロジックを持たせたいのは、我々の自己満足に過ぎない。

ただ、矛盾するようだけど、「許すか許さないか」ではなく「怒るか怒らないか」を選択することは無駄ではないと思う。
怒って再発を防げるのか、怒るよりも有効な伝え方があるのか、それとも本人に言うよりシステムを変えた方がいいのか、それを考え続けることは大事なことだと思う。
我々は神ではないから、あくまでもキャパの範囲で。

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