イエスは幼子を可愛らしく語ったのか

'そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」'マタイによる福音書 11:25-30 新共同訳

わたしは以前、幼稚園の園長をしていた。キリスト教保育連盟という組織があり、「キリスト教保育」という機関誌もあって、とても勉強になった記憶がある。幼児讃美歌や子ども讃美歌には、幼稚園で歌うのに向いているだけでなく、大人が礼拝で歌っても沁みるような曲もある。

ところで、上記の聖書箇所は19世紀から20世紀にかけて、やや感傷的に受けとめられてきたきらいがある。インターネットで、赤ん坊や幼い子どもの画像を検索してみればよい。可愛くて、か弱くて、放っておけない。大人のように巧妙な偽装はせず、率直で...そういうイメージがいまだ根強く残っている。もちろんツイッターの世界では、子どもは大人が思っているほど美しい存在ではなく、子育ても美しさからは程遠いという「本音」があふれてもいるのだが。

教会で上記の聖書箇所を引用する際に、わたしも幼稚園の保護者に向けて話をするときには、もれなく感傷的、あるいはロマンチックな子どものイメージを語っていたと思う。可愛らしく、か弱いが、神さまに愛されてすくすくと育つ、すなおで元気な子ども。あなたたちはみな、かけがえのない神さまの子ども。大人のみなさん。あなたたちも神さまから愛された、神さまの大切な幼子。この子どもたちのようであろうではありませんか。社会的な見栄を張らず、自分にすなおに、神さまの前では、親に甘える子どものように生きていきましょうよ─────

だが、こちらの教会にやってきて、複雑な背景を持つ人たちの話を聞く機会が増え、わたしにとっての、少なくともイエスが語る「幼子」のイメージが変化したのを感じる。

幼少期に親からネグレクトを受けたり、継続的な暴力にさらされたりした経験をもつ人。親あるいはきょうだいから性的な虐待を受け続けた人。大人に頼り、安全な環境で育つはずの子ども時代に、誰にも頼ることができず、きわめてネガティヴな影響を受けながら育った人。人は子どもの頃なんとなく、理由もなしに、親やきょうだい、友人など、周りの人間を信頼することをとおして、自分以外の誰かを信じたり、愛したりすることを覚えていく。しかし最も身近なはずの人間から無視されたり、裏切られたり、暴力を受けたりしたとき。その人はどうやって「誰かを信頼する」ことを学べるのだろう。

もちろん、暴力や虐待を受けた子どもが全員、困難を抱えた大人になるわけではないだろう。なかには少なくとも外見上、あるいは社交上、まったく問題を感じさせないし、本人もとくに困っていない、そういう人もいるかもしれない。だがその人が困難を感じていない、周りにも困難を見せないからといって、それを自明視すべきではないとわたしは思う。その人がそこまでになるには血のにじむような努力があってのことかもしれない。奇跡に近い出会いや相互理解があって、人を信頼できるようになったのかもしれない。そうした想像は欠かせないと思う。というのも、教会に相談に来る人のなかには、子どもの頃に受けた傷のせいで、それが痕となり、人を心から信頼することがいまだにできず、そのことがもとで対人トラブルを繰り返し、それが原因でさらに人間不信に陥る、ということを積み重ね続けている人もいるからである。

イエスは語る。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。わたしが今まで語ってきた文脈でいうなら、知恵ある者や賢い者とは、しっかり自活できる人のことである。周りの人を信頼し、自分自身にもある程度自信を持っていることに、とくに疑いがない人のことだ。その人は、自分の力だけでそのようになれたのではない。幼子だった頃には親やきょうだいに守られ、長じて友人や教師に恵まれ、努力をする環境を整えられ、そのなかで精いっぱい努力をしたのだ。だからその人は知恵や賢さを身につけ、自尊感情を育み、他人を信頼することもできるようになったのである。だが、世のなかの誰もがそうなのではないということである。努力できる環境以前の諸問題を幼少時から抱え、そもそも他人を信頼するとはいかなることか、自分を大切にするとはどういう体感なのかを、知らないまま大人になっている人もいるのだ。イエスがここで深く関わりたいと思っている「幼子」とは、そういう人のことなのだと、最近強く思うようになった。

ネグレクトや暴力にさらされる幼少期を過ごした人はしばしば、「自分は粗末な扱いをうける程度の値打ちしかない人間なのだ」と、その身体に刻み込まれている。そういう人にわたしが「あなたも神さまに愛された、かけがえのない人なんですよ」と上っ面で語りかけることの、なんと無意味なことだろう。そういう人が「わたし、もう死んでもいいですか」と吐露するときに、「わたしはあなたを大切に思っています。あなたに死んでほしくない」と語る声の、なんと虚しく響くことだろう。

自分をも、他人をも信頼できないでいる人が、そこにいるというのに。

それでも、わたしはその人と出遭おうとするだろう。古代における乳児の死亡率を想像すれば事足りる。イエスが「幼子」という言葉で表したのは、いっときでも放置すればすぐに死んでしまう存在のことだったのだから。そしてわたしもまたそんなイエスに、────ネグレクトや暴力ではないとはいえ────死にかけたのを拾い上げてもらったのだから。

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