まったく共感できない人と関わる

教会では、例えば貧しい人、病に苦しむ人、孤独な人を憐れもうといったメッセージが語られるし、語られずとも雰囲気としてある。イエス・キリストがそういう人々と関わり、癒した奇跡が語られているからである。イエスの弟子たちもキリストに従って同じように人々と関わったし、その後継者たちも、そしてずっとずっと続いて今日の教会に至るまで、それが語り継がれ、行い継がれている。

ここで教会がつねに挑戦を受けてきたし、そして他ならぬわたし自身が挑戦を受け続けていることがある。それは「嫌な奴」との関わりである。先ほど貧しい人、病に苦しむ人、孤独な人というふうに素朴に列挙した。そこで瞬時に思い浮かぶのは、貧しいわたしの善意には心から感謝してくれる人、病に苦しんでいるお見舞いをすれば心から歓迎してくれる人、孤独である心清らかで、交流を深く感謝してくれる人という具合である。だが、誰にだって人付き合いの好みというか、合う合わないがある。わたしから見て、貧しい嫌な人、.... 以下略というような人も当然いる。

日本の教会は大きいところでもせいぜい200人くらいだろうか。小さければ数人である。そういう場所で、すでにいる人々にとって「嫌な奴」としか思えない人が教会にやってくる。そのときこそ、ある意味でその信仰が問われる。さりとて「隣人愛だろうが!」と根性論で乗り切るのもどだい無理な話である。だからキリスト教は「隣人愛とは何だろうか」ということについて、数々の失敗や挫折を重ねながら今日まで考え続けてきたのである。

こんな奴は同情するに値しない、最低のクズだ────そのように世の中で思われている人が教会にやってきた。その人の過去の「罪状」に、はっきりいって一片の同情もできない。傾聴というとおおむね、辛かった過去に耳を傾ける行為を指すが、ここでも辛かったが貴い話をイメージしてしまうのではないか。実際はそうとは限らない。相手の過去の話を聞いてみたら、誰がそんな話に同情するというのか、なんという自己中心かと、怒りさえこみあげることもあるのだ。

しかし教会に来た人は、どんな人であれ神に招かれて教会に来たのだという信仰的前提がある。だから、わたしも教会員たちも、できるだけ足掻く。その嫌な奴を追い出さないように頑張ってみるのである。その際に、ひたすら根性で我慢するのではない。そんなことをしていたら教会員やわたしは倒れてしまう。あるいは我慢したぶん、我慢対象への憎しみが爆発してしまう。だから、ただ我慢するのではなく想像するのである。この人はなぜ今、こんな言動をするのだろうかと。相手の不快な言動そのものだけに注目するのではなく、それが湧きおこってきた文脈、背景について考えるのである。それですぐにどうこうなるわけではないが、少なくともこちらの視野はわずかなりとも広くなり、怒りの濃度が薄くなるという効果はある。教会ではこれを、祈りのなかで行うのである。祈りのなかで、その人との距離感を探り続けるのだ。

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