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神殿の再建【エズラ記1章】【やさしい聖書のお話】

今週からエズラ記

今週から、旧約聖書のエズラ記です。エズラというのは預言者の名前です。

先週までダニエル書から、「長かった捕囚が終わる!」ということを読んできました。エズラ記とネヘミヤ記では、ペルシア帝国からユダヤに帰還して、神殿を再建しエルサレムで主を礼拝することが再開されたことが記録されています。

キュロス王の感動

エズラ記のはじめは、主がペルシアの王キュロス2世の心を動かしたので、キュロス王がペルシア帝国全体に次のような命令を送った、という書きだしです。

天の神、主(ヤハウェ)は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、神がその人と共におられるように。その者は誰であれ、ユダのエルサレムに上り、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の神殿を建てなさい。その方はエルサレムにある神である。

エズラ記1:2-3(日本聖書協会共同訳)

エズラ記は、これがキュロス王の第1年のできごとだと伝えています。キュロス2世がペルシアの王に即位して第1年というのではなく、バビロンを倒して(エジプトを除く)世界を統一した「ペルシア帝国のキュロス王」の第1年ということでしょう(このときの「世界」はだいたい現在オリエントと呼ばれる地域です)

ペルシアはもともとはメディア王国に支配される小さな国でした。でもキュロス2世が王になってから約20年という短期間で、メディアに反乱してこれを倒し、新バビロニア帝国まで倒してしまったのです。
このマンガのような快進撃は「天の神、ヤハウェという名のすばらしい神が、すべての王国を私に与えたからだ」とキュロス2世は言っているわけです。
そして、そのヤハウェという神のために神殿を建てることも、私キュロスにまかされたぞと。

キュロス王、テンション爆上がり中。
新共同訳で「(主は)キュロスの心を動かされた」と訳しているところは、他の邦訳では
「主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた」(新改訳2017)
「クロスの心を感動された」(口語訳)
と訳しています。実際にテンションMaxだったんだと思う。

でもどうしてキュロス王はそんなに感動して、こんなことを言いだしたんだろう。
国の強さはその国の神の強さだというのが常識だった時代に、ペルシアの神々やメディアの神々を差し置いて「ペルシア帝国に倒された新バビロニア帝国に滅ぼされたユダ王国の神」のおかげだと言い出したのは、何があったのだろう。

「キュロスという名の牧者」は預言されていた

実はキュロス王が生まれるより100年以上、200年近く前に、主は預言者イザヤをとおしてこう預言していたんだ。

(主は)キュロスに向かって、わたしの牧者
わたしの望みを成就させる者、と言う。
エルサレムには、再建される、と言い
神殿には基が置かれる、と言う。
主が油を注がれた人キュロスについて
主はこう言われる。
わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
あなた(キュロス)は知るようになる
わたしは主(ヤハウェ)、あなたの名を呼ぶ者
イスラエルの神である、と。

イザヤ44:28-45:3より抜粋(新共同訳)

たぶん、このこのイザヤ書の預言がキュロス王に伝えられたんだろう。

これは想像なのだけど、前述の通りペルシアは短期間で大帝国になったから、支配下にどんな国があってどんな民族がどんな宗教を持っているか調べる必要があったはず。
たとえばだけど、もし「戦争好きな神様を信じる過激な民族」の国が支配下にあったりしたら、たいへんなことになるかもしれない。新しく支配下になった国々の情報収集を急いだはず。民主主義万歳な現代人は、王様というだけで「どうせ武力だけのバカだろ。バカ殿や悪代官みたいなものだろう」みたいに、コントや時代劇の影響を自覚せずに思う人もいるけど、実際には少なくとも建国者たちはバカでは務まらない。

で、調査の結果「バビロンに滅ぼされたユダ王国の人々の宗教の聖典を調査したところ、キュロス王の名前が書いてありました」という報告があったんじゃないかな。
イスラエルのヤハウェという神が、「キュロス」という名の者を羊飼いにすると。羊飼いとは、羊を飼う者。つまり民衆を支配し養う王を指している。
そしてヤハウェ神が、国々をキュロスに従わせ、王たちを降参させると。

ちなみに、イザヤが預言者として活躍したのは紀元前740年頃から715年頃と考えられています(諸説あり)
キュロス2世がペルシア王として新バビロニア帝国を倒したのは紀元前539年とされています。
イザヤは活動期間が長いのだけど、上記のキュロスについての預言は実際にキュロス王が世界を支配するより200年近くも前のお告げということになるわけです。

イザヤ書の預言が約200年後のキュロス王のことそのまんますぎるというので、「これは預言でもなんでもない。キュロス王が歴史に登場した後で、イザヤ以外の誰かが書いたんだ」と教える教会もあります。「この部分はイザヤとは別人の、名前も知られていない誰かが書いたにきまっている」として、その誰かを「第2イザヤ」と呼ぶクリスチャンたちです(第2イザヤ、第3イザヤ、第4イザヤ、第5イザヤ…と説によりますが大勢の人々によってイザヤ書は書かれたとする説。根拠はキュロスという名前だけではありません)

このような、後出しで預言されていたことにすることを「事後預言」といいますが、エズラ記は事後預言だと教える教会がある。
そうだったのかもしれない。でもぼくは、そうは思わない。

「主は、キュロス王が登場する前にキュロスの名をイザヤに告げることはできない。主は、たった200年後のこともイザヤに告げることはできない」なんて、ぼくには思えない。
「主が全知全能というのはインチキで、実際にはできごとがあってから、200年前に預言していたフリをしてるだけなんだ」なんてことなら、ぼくはそんなインチキな神様には用はないですw

主が、ぼくが信じているような全知全能の神なら、200年後のキュロス王のことどころか、2千年以上あとの主の再臨のことだって知っているし告げることができます。
「神は預言者をとおしてあらかじめ告げるなどということはできない」と教える教会の神様と、ぼくが信じている神様は、違う神様なのでしょう。きみが信じている神様はどちらかな?

キュロス2世の話に戻ると、彼は「なんだと?私の名前が200年近くも前に書かれたイザヤ書とかいうものに出てくるだと?」「私が国々を従わせることまで、その神からお告げががあっただと?」てなったんだろうね。
そうしたら、「すごいなその神は。どの国のどの民族の神だ?ユダ王国?どこそれ?」て。
そして、70年前に新バビロニア帝国に滅ぼされた国だと、その神様を礼拝する神殿もボロボロに破壊されたままだと知って、で「その神殿を私が再建することまでイザヤ書とやらにお告げが?」て。

それで最初に読んだように、キュロス2世は『天の神、主(ヤハウェ)は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された』と宣言したんだ。

エルサレムへ!

キュロスの感動によって、帝国で暮らしていたユダヤ人たちはエルサレムへ行きました。

ただ、エルサレムへと出発したのは帝国内のユダヤ人の全員ではなかったようです。
実はキュロス王は、ペルシア帝国内の全ユダヤ人に帰還を強制したわけではありませんでした。命令文の最後はこうなっています。

残る者は皆、どこに寄留している者であっても、自分のいる所で、エルサレムにある神の宮への自発の献げ物を用意し、また銀や金、財産や家畜をもって彼らを援助しなさい。

エズラ記1:4(日本聖書協会共同訳)

バビロンに連れてこられてから70年だし、捕囚後にバビロンで生まれた世代のほうが多いくらいでしょう。すでにバビロンでの生活があります。残る者は残っていい、主の民として戻りたい者は行って神殿を建てろというのです。

さらにキュロスは、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から奪ってきた5千点以上の金銀の祭具を返却するように命令します。
これもすごいことです。
日本の佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞したおもな理由は、非核三原則という政策によって核不拡散条約に署名したこと、そして戦後ずっと米国の統治下となっていた沖縄県を平和に取り返したことです。どちらもその後にいろいろな批判も出ていますが、イギリスが「中国から借りていた香港」を返還したのとは違って、戦争で奪われた領土と住民を戦争で取り返すのでなく話し合いで取り返したことが「ノーベル平和賞もの」の偉業と評価されたわけです。
キュロス王が現代にいたなら、まさにノーベル平和賞にふさわしい大英断といえるでしょう。

キュロスは別に、イザヤ書に書かれているからといってエルサレム神殿を再建しなくてもよかったんです。70年も前にバビロンに滅ぼされたような、ユダとかいう弱い国の弱い神様のお告げなんて、実現してもしなくても意味はない。ペルシアにはもっと強い偉大な神々がいくらでもいる。
でも主がキュロス2世の心を動かして、キュロスを感動させ、キュロスの霊を奮い立たせた。キュロスはユダの神ヤハウェに従って、エルサレム神殿の再建を命じたんだ。
 
こうして、主の民が主にそむいたために、バビロンのネブカドネツァル王によって破壊された主の神殿は、
主が約束していたとおりに、ペルシアのキュロス王によって再建されることになったのでした。

今週は、主を礼拝するための神殿の再建のお話でした。次は礼拝の再建のお話になります。

おまけ:預言が実現する3つのパターン

聖書でいう預言は、未来のできごとをあらかじめ予告するものもあるけれど、現在のことについて神様から指示が告げられること、弱っている時に神様から励ましの言葉が与えられることなど、とにかく「神様から告げられたこと」という意味です。夢や幻など、言葉ではなく映像のようなかたちで告げられる場合もあります(ただ「預言とは、神様から言葉を預かること」というのは正しくありません。「預」の字に「何かをあずかる」という意味が加わったのは、この字が日本に伝わってから、しかもわりと最近のことのようで、もともとはこの字は「あらかじめ」という意味です)

ただ、預言が未来のことをあらかじめ告げる内容だった場合、「預言が実現した」ということには3つのパターンがあります。

  1. 先に預言されていた通りのことが、あとで実際に起きた。

  2. 何かできごとがあってから、「実はこういう預言があったんだ」ってあとから言い出す。

  3. 先に預言されていたとおりに、あとから行動したので実現した。

パターン2の「事後預言」は、実際にできごとがあってから書いているのだから、百発百中、はずれるわけがない。「イザヤがキュロスという名の王の登場を知ってるわけがないし、神がイザヤにそんなことを告げることはできない。イザヤ書はキュロス王のできごとのあとに書かれた」というのはパターン2の立場ですね。
キリスト教ではこれは「神は全知か、全知ではないのか」「預言は人(預言者)が勝手に書いたことか、神が人(預言者)に告げたことか」という話ですが、どちらが正しいかは決めることはできません。「神は全知ではない。預言書は神ではなく人が書いた」と信じるクリスチャンを相手に「それは神の言葉だ」と証明することは不可能だし、その逆も不可能なんです。

ところで福音書では、イエス様のできごとなどについて、「預言されていたことが実現するためであった」みたいな言い方がよく出て来ます。これはパターン3なのでしょうか。預言されていた通りに行動したら、そりゃ当たるよなという気もしますが。
でも、未来についての預言というのは、神様からの「あとでこういうことをするよ」という約束なのです。それを神様であるイエス様が「約束していたので、そのとおりにした」ということを、「預言されていたことが実現するため」と伝えているだけです。その中にはマタイ1:22のように、人間には実現不可能なことが預言されていてそれが実現するためであったというものもあります。

では「キュロスという牧者が主の神殿を建てる」と預言されているからというので、キュロス王がエルサレム神殿の再建を命じたというのはどうでしょうか。
キュロス王にとっては、パターン3かもしれません。
でもユダヤ人にとっては、そして主は神であると信じる人にとってはパターン1だろうと思うのです。

 《動画版》

このnoteの内容は、2022年10月2日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
また、このnoteの内容は完全に個人のものです。


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