西田一紀

夜の本気ダンスというバンドでギターを弾いています。 あることないことを書くつもりでいま…

西田一紀

夜の本気ダンスというバンドでギターを弾いています。 あることないことを書くつもりでいます。

最近の記事

愚者の鈍行

その日はなんともスムーズに外出の準備をし終えていた。 私はいつだって、出かける直前になってようやく、思い出したかのように準備をし始めるものだから、結局いつも上手い具合に外に出ることができない。 そんな私であるが、その日は珍しく、ゆとりを持って支度を済ませていた。 それでも用心深い私は、何か忘れ物があるような気がしてならなかったので、部屋の中をぐるりと見渡した。 すると、机の上に死骸のように横たわる財布が目に入った。 しまった、しまった。 と財布を拾い上げて鞄の中に入れよ

    • ある日の朝

      薄目を開けると、カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいた。 それはいつもより柔らかな光であった。 部屋はいつもよりしんと静まり返っており、「清潔感」を具象化したような、真っ白なふかふかとした布に私は包まれていた。 きっとここはシャボン玉の中なのだと思った。 そうだ、ここはまだ夢の中なのだ。 もう一度目を瞑ったら、いつものような朝に戻るのかしらん。 そう思って目を閉じ、再び暗闇に潜ろうとした。 しかし次の瞬間、突然に目の前がぐらぐらと揺れ始めたのである。 部屋全体が、オフロ

      • 似て非なるもの

        サービスエリアの喫煙所に行くと、しばしば電子タバコの営業の人がいて、「一本いかがですか」と、声をかけられる。 「結構です」と答えると大抵は、「ありがとうございました」と言って去ってゆく。 なんだか申し訳のない気持ちにもなるのだが、矢張り吸いたくないものは吸いたくない。 私にとっては煙草と電子タバコは、同じ「煙草」の名を冠していても、似て非なるものなのである。 例えるならば、家でつくるカレーとスープカレー程に違う。 更に付け加えるなるば、煙草であっても「ラッキーストライク」以

        • 理想

          猛暑だなんだと言われ続けた夏も、その終わりは呆気なく、一度秋の風が吹き始めると街は途端に暑さを忘れて、思い出したように金木犀の香りをつけ始めた。 朝の冷え込みは既に冬の気配をはらんでいて、その冷え込みはもう直ぐ一年が終わるのだと言うことを暗示しているように思える。 夏の朝のねっとりとした粘着質の嫌な感じは無くなり、お陰で寝起きはとても心地よい。 近頃の私には踏ん切りつかないことがある。 もっとも、定食屋で食べるものひとつ即座に決断できない私にとっては、日々が踏ん切りのつかな

        愚者の鈍行

          煙草

          煙草を止めて四年以上が経った。 スタジオへ出かける前、いつものように換気扇の下で一服をしていると、突然に、煙草が自分には必要のないものに思えて、そのまま煙草の火を消すなり、灰皿やタスポといった煙草にまつわるものをゴミ箱へ放り込んだ。 それ以来、煙草を口にすることは一度もなく、また吸いたいという衝動も訪れることはなかった。 思い返すと、私は煙草を止める数日前に、歯医者を訪れていた。 その際に、歯医者は私に「君は煙草を吸っているね」 と言った。 私はコクリと頷いた。 歯医者は

          俳優

          先日スターバックスに行った時のこと。 珈琲とドーナツを注文し、勘定を済ませるべく携帯電話を握りしめていたところ、店員の若い男に声をかけられた。 「すみません、もし違ったら申し訳ないのですが、もしかして俳優さんですか」 突然のことだったので私は、 「えっ」 と漏らして、一瞬固まってしまった。 そして少し遅れて彼の言葉が、言語としての意味を成し、つるつると私の頭の中へと流れ込んできた。 状況を理解した私は、すぐさま「違う」と答えた。 それで彼は納得して終わるだろうと思った

          あの時彼女が見せたかったもの

          駅に着くと十三時の二分前であった。 私は携帯電話を取り出して、到着した旨を知らせた。 返事は直ぐに返ってきた。 「わたしも着いた」 前日の夜、我々は適当に落ち合うことだけ決めて床についたが、朝方になってWから「海に行こう」という提案があった。 正直なところ私は海は嫌いであった。 海はおろか、水辺はどれも好かない。 勿論、風呂を除いて。 どうして人々は、わざわざずぶ濡れになりにゆくのか、私には到底理解ができなかった。 それは野蛮であるようにも思われるし、ある種の幼児退行であ

          あの時彼女が見せたかったもの

          サイレン

          春があまりにも春らしい。 お陰で頭の中は、いつにも増してぼんやりとしている。 近頃は季節の境目にグラデーションがなくなって、突然に新しい季節がやって来るように思う。 メリハリがあってわかりやすいが、なんだか乱暴であるような気もする。 鈍い頭で過ぎていった冬のことを考えた。 そういえばこの冬もまた、いつになく冬らしかった。 沢山の雪を見て、手には霜焼けができて、赤切れがあった。 何度もコートを羽織って外へ出かけた。 子供の頃は、吸い込んだ空気が冷たくて、肺の中まで冷え切ってし

          サイレン

          道の声

          実家に帰った時のこと。 リビングのソファーに腰掛けて、見たくもないテレビ番組を母親と眺めていたところ、突如散歩をしたい衝動に駆られた私は、矢庭に立ち上がり、「行ってくる」と母親に告げた。 突然の事に驚いた母親は、 「もう家に帰るのか」 と尋ねた。 「散歩」 と私は答えた。 「どこまで」 「わからん」 そう言って私は家を出た。 特に行きたいところがあったわけでもなかったが、なんとなく農村の方へ向かって歩いていた。 その道は中学生の時分、よく歩いた道であった。 学校へ通う時や、

          春の気配

          いつものように玄関の扉を開いてみると、そこには春の気配があった。 今日は二月最後の一日だった。 いつもに比べて風が強く吹いていたが、もう昨日のように冷たくはなかった。 その風はあちこちから小さな春を集めて、街へと運んでいた。 きっと数日のうちに、街は春でいっぱいになるに違いない。 鼻がムズムズとして、落ち着かなかった。 私は寒さに対して鈍感であるから、キンキンに冷えた日にも手をほっぽり出してあるいているのだが、そのせいか、いつの間にか指は霜焼けだらけになっていた。 心と体

          春の気配

          認証バナナ

          昼時に腹を空かせていた私は、空腹を覚える暇のある己の肉体に嫌悪の念を抱きながらも、その空洞を埋めるべく、飯どころを探していた。 ホテルの周りをぐるりと散策してみたところで、その土地の雰囲気がにわかにわかり始めた。 煙草の臭いが二区画先まで漏れ出ているパチンコ屋、道の真ん中で煙草を燻らす若者、覚束ない足取りの中年男性、虚な目をした者達、吸い殻や空き缶でいっぱいになった溝、そのひとつひとつが味気の無い街に、装飾を施しているようであった。 その街は既に殆どの色彩を失っており、空

          認証バナナ

          眼鏡

          このところどうにも家の中での視界が悪い、そう思わずにはいられなかった。 なに、別に我が家が霞がかっているわけでもなければ、眼球に疾患があるわけでもない。 ただ眼鏡のレンズが汚れているのである。 なんだ、レンズの汚れならば拭き取ればしまいではないか。 まったくバンドマンという輩は、そんな事までなおざりにしてしまうのか、まったくけしからん。 そう思った方は早計である。 私とてバンドマンである前に、きちんと教育を受けた人間である。 中学生の自分には学級委員長を務めあげた経歴も

          虫歯

          これは流行病が蔓延する以前のことであったから、四年程前のことであったかと思う。 齢三十を目前に控えた私には、矢張り人に誇れるようなものは、これといって持ち合わせていなかった。 もとより己の性分や特異な部分を人の目に晒すことには、面目の無さや後ろめたさを覚えてしまうところがあったので、そういったものが養われなかったのかもしれない。 もしも私の中にもそういった素養があったとしても、無意識のうちに角を削って、たちまち平均化していたことだと思う。 そんな私にもたったひとつ、人に胸

          待ち合わせ

          私は街へ向かう電車に揺られていた。 その電車が街へ着く時間は、待ち合わせの時刻を少しばかり過ぎてしまう予定であったが、私は気にしていなかった。 気にしていないという表現は的確ではないかもしれない。 私はその日早起きをしていたし、家を出るずっと前に準備も済ませていた。 朝の読書も幾分捗った。 よってその日の私は、もう一本早い電車に乗ることもできたし、もっとゆとりをもって到着する電車に乗ることもできたのである。 にもかかわらず、私は待ち合わせの時刻に少しばかり遅れて到着しようと

          待ち合わせ

          瓢箪のギター

          人は一人では生きてゆけないなんて事は、よく言われることで、それに対して何の疑いもなければ反論をするつもりもないのだが、ひとりの時間が至極の瞬間であることもまた事実なのであり、気づかいや気兼ねもなく、ただ己の頭の向くままに過ごしているだけですむというのは、この上なく有り難い。 一般に人と人が交わる時、とりたてて話すような事柄がなくても、互いに取り留めのない話で会話の糸口を模索するのはコミュニケーションのいわばイントロであり、イントロ無くして音楽は奏でられず、つまりこれを避けて

          瓢箪のギター

          動かざる事山の如し

          私はあくせくと動き回ったり、テキパキと物事をこなすを好まない。 忙しなさは実際的な疲労はもとより、なんだか心を削り取ってゆくような思いがする。 体はいくらくたくたになっても、ひとっ風呂浴びてベットに横たわれば、翌る日にはご機嫌なお天道様がお迎えに来て万事平穏といった具合いであるが、心が疲れてしまっては世界は薄暗く気色が悪いものとなる。 心にはいつも余白を持っていたい。 そのようなわけで、慌ただしさをひたすらに避けて今日までダラダラと生き抜いてきた私は、気づけば頭の回転から感

          動かざる事山の如し