動かざる事山の如し


私はあくせくと動き回ったり、テキパキと物事をこなすを好まない。
忙しなさは実際的な疲労はもとより、なんだか心を削り取ってゆくような思いがする。
体はいくらくたくたになっても、ひとっ風呂浴びてベットに横たわれば、翌る日にはご機嫌なお天道様がお迎えに来て万事平穏といった具合いであるが、心が疲れてしまっては世界は薄暗く気色が悪いものとなる。
心にはいつも余白を持っていたい。


そのようなわけで、慌ただしさをひたすらに避けて今日までダラダラと生き抜いてきた私は、気づけば頭の回転から感情の起伏に至るまで、全てが人より鈍重な体たらくで、その影響は喋る際の抑揚や速度にも波及している始末で、しばしばお経と揶揄される。


海外の映画を観ていると、よく会話の途中で熱くなって罵り合いになったりだとか、男女が部屋の戸を閉めるや否や熱狂的に絡み合ったりなんてシーンをよく目にするが、あれは感情を瞬時に表現することができるからこそ為せるのであって、鈍重な私は、自分が怒っていたり悲しんでいたりする事に気がつくのに少しばかり時差が生じてしまうので、結果として、気づいた時には感情を面に出すべき最良の瞬間を逃してしまい、とどのつまり「まあ、ええか」と飲み込んで済ませることになる。
そのような過程を他人は知る由もなく、人々は無反応な私をみて薄情な人間だと考える。
そんな私は若い頃にはよく、「人形」や「ロボット」と形容されたものであった。


だが鈍い頭にも恩恵があった。
身に振りかかったことがワンテンポ遅れて頭で咀嚼されるため、私は不測の事態というものには殆ど動じることがない。
焦燥とは大抵の場合、リアルタイムの中に介在しており、進行中の物事に対する不安定さによって引き起こされる。
故に私のような後追いの思考には効力を為さない。

そのようなわけだから、電車で酔いどれが吐瀉物を吐き散らしていても、お手洗いで隣の中年男性が爆発物のような破裂音を伴う屁をこき散らしても、家を出るべき時間に目覚めたとしても、食べログで高評価の店が不味かったとしても、心と心が通じ合っていると思っていた者と実は何も分かり合えていないということが発覚したとしても、夢だと思って鷹を括っていたらそれが現実であったとしても、キャベツの中から青虫が出てきたとしても、私は顔色ひとつ変えずに対処することができるだろう。


ただ、そんな私にも焦燥を覚えることがある。
あるということが近頃になって発覚したのである。


この頃の私は抜群に運がいい。
何故といって、当たり付きの自動販売機で二日続けて当たりが出たのである。
水のボタンを押して商品が落ちてきたところ、機械がピコピコと唸り始めた。
次の瞬間、機械の発する音が何やら愉快な具合となって騒々しくなった。
そして飲み物のボタンが再び点灯された。

その瞬間私は、当たりが出たということを悟った。
そして一拍遅れて嬉しさが込み上げてきた。
すると喜びの次に私の心には、得体の知れない不安が宿った。
それは焦燥であった。

焦燥にかられた私は、見えざる何かに急かされているような気になり、殆ど無意識にデカビタのボタンを押していた。


私はデカビタなど飲みたくはなかった。
水なら何本あっても困らないので、水を押すべきであったと思った。
今なら私は間違いなく水を押している。
デカビタは飲みたくない。

私は性根がネガティヴであるから、困ったことが身に降りかかっても、それはある意味当然であるように考えてしまう。
だが、嬉しいことが起こるなんてのは、まさに不測の事態である。
想定の範囲外である。

故にその様な場面に出くわすと、頭がぐるぐると回りはじめ、その中心に焦燥が宿る。
焦燥は頭の中の時間の流れを早くする。
私は急かされるような心持ちになる。
そうして悲劇は繰り返される。


翌る日も私は同じ自動販売機で水を購入した。
すると、水を落とした機械はまたピコピコと唸り、それが愉快な音に変わったかと思えば、飲み物のボタンが再び点灯した。
それを合図に私の頭はぐるぐると回転し始め、焦燥が鎮座した。
私の心の中は大きくぐらぐらと揺れ動くような思いがした。
そして私はまた、同じようにデカビタのボタンを押した。
自動販売機で当たりが出る時、間違いなく私は動揺する。
正常な判断を奪われている。

自動販売機の当たりは、当たりであって当たりでない。
飲み物をもう一本と、悔恨を残してゆく。


そもそもあれは、どれくらい待ってくれるのか、それさえわかれば私は急かされずに済んだのだ。

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