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『雨とビールと丸メガネ』 【ショートショート】

 雨音が動悸を加速させる。彼女に会うのは久しぶりで、少し早く着きすぎてしまった。傘を買うまでも無いか、と梅雨の雨脚を舐めすぎた。店に着くやいなや雨は激しさを増し、もうこの店を出させまいと、雨粒混じりの風が店の窓を勢いよく殴る。
 「お一人様ですか?」
 「いえ、後から一人くるのですが、大丈夫ですか?」
 「はい、ご案内致します」
 愛想のいい女性店員は若干濡れた私の髪や服を見て、
 「ギリギリセーフでしたね」
 と言ったが何のことかわからず、不思議そうな顔をしていると、
 「あ、えっと雨のことです、強くなる前に店に到着されたので、ギリギリセーフかなと、ごめんなさい、変に話しかけてしまって」
 「あ、そーゆーことですか、ごめんなさいこちらこそ理解力が乏しくて」
 頭を下げて厨房に戻っていく店員の背中を見ながら、心の中で、気の利く優しい人だなと思った。丸メガネの似合うショートカットの子だった。

 店に着いて20分ほど経っただろうか、彼女はまだ来ない。彼女からは「ごめん遅れる」とLINEがあり、対して「先、店で待ってるからゆっくり気をつけてきな」と返信し、それ以降未読のままで返信はない。
 店に悪いので先に頼んで飲んでいたビールは既に飲み干してしまいそうだ。秒針と秒針の間がやけに長く感じる。時間を潰そうと携帯を開いてみても、インスタのストーリーやツイッターのタイムラインは一つも笑えず、つまみにならない。ただひたすらに、冷えたビールの爽快な喉越しを楽しみながら、自身の舌から始まって食道を通り抜けて胃に下っていく炭酸の苦味を集中して享受する。これが美味しいから困る。
 しかし今夜は晴れていなくてよかった。もし彼女が来なかったとしたら、高く尊いはずの星空にバカにされているような気持ちになっていたろう。
 傘を買わなくてよかった。雨に打たれれば、雨の中に私の涙は消えてくれる。数十分後私は泣いているかもしれないのだ。

 「あの」
 「はい?」
 「あ、すみません、あのお連れ様はまだお見えでないですか」
 優しい女性店員はとても聞きずらそうな顔でそう言って、一枚の紙を渡してきた。
 「ごめんなさいまだ来てなくて…えっと、何です?これは」
 「いいんです、急かしてしまったみたいなってごめんなさい…あの、これは、私が書いた絵です。趣味で描いてるんです。」
 紙には、丸い鏡のような浅い水溜まりを、華麗に泳ぐ紫色の魚が描かれていた。
 「どうしてこれを?」
 「寂しそうな顔をされていたので、私もそんな時あるので、なんていうか、ごめんなさい、でしゃばった真似して」
 「いえ、ありがとうございます、本当に、ありがとうございます」
 何だかわからないが、熱い気持ちになっていた。美しい魚、優しい店員、激しい雨、それに旨すぎるビールと、来ない彼女。たまらず店を飛び出した。雨は激しく私の体を劈いて痛いくらいだ。会計を忘れたが、まあいいか、今度払いに来よう。あの優しい店員さんにもお礼をしなければならないし、ビールが美味しかったことも伝えなければならない。

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 暗く冷たい夜を懸命に走った。ビショビショになって、まるで魚の気分だった。いい歳してバカみたいだ。泣いてるかもしれなかった、しかし雨が降っていればわからない。雨でよかった。濡れていく自分に酔い、傘を買わなかった自分を誇りに思いながら、泣きながら、笑顔だった。
 ある程度走って、気持ちいいぐらいに息切れしながら、知らない公園で立ち止まった。通知音がなって携帯を見ると、彼女からのLINEだった。
 「ごめん、いけないや、いろいろあって、あと、傘もなくて、とにかくごめん」

 「バーカ」

そう返信して、空を見た。傘なんていらないじゃん、そう思った。

 それから半年ほど時が経って、季節はすっかり冬になっていた。風はツンと頬刺す鋭さをもって痛いが、空気は澄んでいて無色に街を覆っている。
 仕事を終えて、あの店に向かう。あのひどい雨の日とは違って、今夜の足取りは緩やかである。しかしあの時と同様に動悸は激しい。
「いらっしゃいま…お、今日は早いね、お疲れ様!」
「ちょっとね、とりあえず…ビールお願い」
「おっけー」

 元カノと雨にフラれたあの日以来、私はこの店に足繁く通うようになった。理由は2つ。ビールが美味しいことと、丸メガネが似合うあの子に会いにいくことだった。彼女とは店に通ううちに仲良くなって、いつの間にか気を使わずに話せる関係になっており、ここで飲むビールに幸せを感じるようになっていた。

「お待たせー」
「ありがと、コレがなきゃ夜は始まんないよね」
「飲みすぎないようにね」
「今日は飲みすぎちゃうかも」
「え?」
「なんでもないよ、ほらお客さん呼んでるよ」
声のする客の方へと駆けていく彼女の背中を見て、あの雨の日のことを思い出す。内ポケットからあの時彼女にもらった絵を出して、思いを馳せる。描かれた紫色の魚の尾鰭の揺らめきに、心を委ねて、ビールを口にする。あの時と同じ、冷たく苦い味がする。体に染み渡るアルコールと鼻から抜ける麦の香りが、私の動悸を落ち着かせる。今の私にはコレが必要だ。美味しいビールは私に酔いと勇気をくれる。絵を内ポケットに戻して、ビールを一気に飲み干す。ビールとは対照的に体と心はジワジワと熱くなっていく。よし。

「すみませーん」
私の声に反応して、彼女は笑顔でこちらに向かってくる。あの時より髪は少し長くなったろうか。丸メガネは相変わらず似合っている。
「はーい」
「注文いいですか」
「いいけど、早いねビール飲むの、そんな急いで飲んだらダメよ」
「うん、分かってる」
「またビールでいい?」
「うん、ビールと、もう一つ注文があって」




「好きです。僕と付き合ってください。」

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