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生温く包みこむ郷愁、夢の途切れと物語の喪失

瞼を薄らひらいてみよう。そこには各々の景色が浮かぶ。そしたら、次は瞼をゆっくり閉じてみよう。そうすれば、我々の身の回りに起こるすべての出来事が嘘(存在しないこと)だとわかる。鬱も快楽も同様に、すべて脳の反応であり、誰もこの虚しい現象にとどめを刺すことはない。

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」という言葉を引用したマーク・フィッシャーは長年鬱に苦しみ、自らこの世界を去った。彼は『資本主義リアリズム』について以下のように説明をしている。

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。このスローガンは、私の考える「資本主義リアリズム」の意味を的確に捉えるものだ。つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。

我々は現行の体制を疑うことだけでなく、「それ以外の道(オルタナティブ)」を想像することさえしない。それを打破する方法はないのか。マークフィッシャーはこう言う。

資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの「現実主義」が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ。

オルタナティブを空想することさえ奪われてしまった我々だが、いくつかの点では抵抗することはできないのか? 

しかしマーク・フィッシャーは「そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。」と資本主義社会における救いのなさを指摘する。この犠牲となったのがNIRVANAのカート・コバーンであり、マーク・フィッシャー自身でもある。

嫌な夢を見ることがある、破滅的で刹那な。夢のなかで学生生活を送り、友人と交友関係を築き、恋人と出逢い、自分が成し遂げるであろう稼業をみつけ、そのまま自分の人生を生きていくのだろうというぼんやりとした確信を得る、甘美かつ手触りのある本物の人生や同様の数十年。目が覚めて、そのすべてがなかったことだったと気づいた時、私は私の人格を構成するすべてのうちから最も欠けてはならない記憶を瞬く間に失う。

記憶を失った元CIA捜査官を描いた『ボーン・アイデンティティー』シリーズ作品で、主人公ボーンは本人の中で物語を喪失した存在だ。ボーンには記憶がないが、その身体にはかつて訓練され、改造された超人的な能力だけが残っている。敵から襲われた時や逃走を図るとき、それは反射的に発揮される。我々が生きる世界は、近代以降に語られてきた「大きな物語」を失った。拠り所のない、空中に舞う塵のよう不鮮明な空間で、何を掻き分け、どこに足を踏み出すのかすら判然としないまま、未来に投げ出される。

その未来とは、予め失われているかもしれない。2021年公開の映画『レミニセンス』では水没した都市のなか未来に希望が持てず、過去の記憶を回想するマシンのなかで誰か(自身を含めた)の夢を見ることで、束の間、不安から免れる。『レミニセンス』は後ろを振り返ったら妻を取り返すことのできないオルフェウスの物語を意図的に改変したメタファーを導入したが、このことは人生や社会の冷酷な事実の前では「真実」などもはや何の価値も持たないことの示唆であろう。
2020年公開の『TENET』も同様に、環境破壊が進み未来に希望を見いだせない時代のSF映画であり、「郷愁」の物語だった。

我々の未来は「郷愁」にしかないのか。まだ未来と希望という言葉の距離がそう遠くなかった80,90年代の映画を観たり、青年時代にTSUTAYAで漁ってMP3プレイヤーが壊れるまで流したオルタナティブロックやシューゲイザーを聴いたりしながら、失われた未来へ思いを馳せ、処方された薬によっても解消されない不眠に怯えながら、ただただ悲鳴を堪える。

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