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なにかがプツンと切れて、仕事を休んだ。

目を覚ましてからしばらくして、「ああ、今日はもう無理だ」と朦朧の中で確信し、職場に休むことを伝えた。それからは、せめてもの罪滅ぼしの意識からか出来るだけ正しい姿勢で寝床について、夕方まで意識を失っていた。

生活にかかわる諸々について限界だと思うことは特別珍しいことではない。前日にどんな素晴らしい出来事があったとしても、新鮮な気持ちで絶望をもって一日を迎えることはある。著しい睡眠不足のせいだとか、栄養の偏りのせいだとか、もうこれ以上虚業に与したくないだとか、人間関係がうまくいっていないだとか、思い当たる理由はいくつかある。さまざまな要素が折り重なって、まるで金縛りにあうように虚弱な身体が悲鳴をあげたようだ。あるいは、端的に言って怠惰が招いた始末であるかもしれない。

すっかり薄暗くなった18時15分頃、いよいよ身を横にしていることにも飽きて、散歩にでかけることにした。自宅でじっとしていると余計なことが頭を駆け巡り、ろくな感情に至らないことは経験上明らかだからだ。儀式のように一服を済ませ、簡単に身支度をして外に出る。

10月末現在は長袖のうえに薄めの上着を羽織らなくては寒い気温であるものの、私のクローゼットを見渡すと、それらしい上着は用意されていない。仕方がないので、以前親しかった女性が置いていったままのマウンテンパーカーを着ている。少し前であれば、彼女の残り香が想起させる喪失に何度も苦しまされて、酷い日には街の中で呼吸の仕方がわからなくなり、実際に立ち止まることも、しばしばあった。別れても時折かかってくる「久しぶりに声を聞きたくて」という無邪気な電話はエビングハウスの理論に従って忘却を中断させる。しかし、あれだけ散々厄介に思っていた呪縛にも囚われることはなくなったし、悪夢で再会することもない。

失恋に限ったことではない。個人的は不幸はあらゆる重要な問題を押しのけて、一度目の前に現れたら容易には退いてくれない。他人にとっては取るに足らない、傍からみれば滑稽でしかない、あまりに些細な出来事であったとしても。助言においてよく用いられる「時間が解決してくれる」とか「そこまで気にする問題ではない」といった至極真っ当な解決策は、不幸の最中にいる人物に、すこしの癒しも施さない。

生誕の苦しみを唱え、反出生主義を説いたエミール・シオランの著書『生誕の災厄』には、約300ページ(手元に書籍がないので正確ではない)に渡って呪詛が書き連ねられている。シオランの書物について、訳者はあとがきにて「これは痛覚で書かれた本、痛覚で読むべき本である」と記しているが、これは本書の性格を的確に言い表していると思う。シオランが語る人生についての悪口を紹介すると枚挙に暇がないのだが、例えば、“そのことを人間が自覚したときはすでに遅く、もはや対策の講じようもなかった”とのような主張からは、生誕への憎悪だけでなく、抗いようのない虚脱感も感じられる。ジャンプ漫画の「友情・努力・勝利」を手放しで信奉するような人間には、およそ必要のない思想である。

ちなみに、私を硬直させたなにかは生誕の苦しみのようなスケールの壮大なものではなく、もっと陳腐なものだ。先述したような睡眠不足や栄養の偏りなど目先の困惑でしかなく、誰もが行なっているような普通に生活をすることを心掛けて、抗うつ薬でも服用すれば収まるだろう。毎日たしかに虚しさを憶えながらも、幸いそれを忘れるだけの没頭に陥る瞬間もあるし、なんとなくの目標もある。物事を深く考えないで済むような軽薄さだって、生来持ち合わせている。

きっとなんとかなる、そのうち。

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