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比較まみれの世界で、心を傾けるは誰の声

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人は生まれながらに7つの大罪を持っているらしい。
生まれてすぐに7つも罪を背負わせられるから、人生とはこんなにもままならず世知辛いのかもしれない。

罪の一つに"嫉妬"というものがある。

"嫉妬"は他者との比較が生んだ手のつけられない感情だ。
人は遠すぎる存在には嫉妬しない。近い相手に嫉妬する。
自分にできないことをやったその人が遠くなってしまいそうな気がして。

時に、自分で蓋をした可能性の叫びを嫉妬と呼ぶのかもしれない。

友人の飛躍や成功を素直に喜べなかった、批判的なことばを並べてしまった、そんな人たちが友人よりも前に失ったものは何だったのだろう。

そして、自ら蓋をしたことに気づけている人はどれくらいいるのだろう。
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◯比較について

平素、ぼくらは比較という思考器具を装着しながら生活をしている。お気づきであろうか。

比較というのは、2つ以上の対象物を並べて配置することにより、ある事柄の現在の立ち位置を相対的にわかりやすく示してくれる鋭い思考の器具のようなもので。

ぼくらは便利過ぎて当然のように比較という思考器具を使うけれど、時に比較はその鋭さのあまり自分をどんどん追い詰めてしまうもろ刃の剣だ。
気づいたときには比較の剣先によって呼吸もままならなくなる場合もあれば、己を駆り立てる為に切っ先を敢えて自分に突き立てたりする人もいる。

さらに追い打ちをかけるように、比較は毒も持っている。
刃に焦燥と言う名の毒が念密に塗り込まれており、流した血を止める時間も惜しんで走り続ける人が成功者と言われるこの時代にはある意味で役に立つ。

何者かになる為に、休息に手を伸ばして倒れこむより血を流しながらでも走り切った方がいいと考える人もこの世界には少なくない。

◯ぼくの仮想敵


今、PCの前で眠そうな顔でキーボードをパチパチと打っているぼくも比較の繰り返しで形成されてきた。

ぼくは両親から他の誰かと比べられて囃し立てられることが多かったタイプの坊やだったように思う。

厄介なのは、ぼくの比較の対象は特定の誰かなのではなく、2人が作り上げた理想の君のようなもやは概念的なものだったこと。

その影響か、誰か特定の人や周囲の誰かと自分を比べることはあんまりない代わりに、いつも見上げたところに顔の見えない最強の仮想敵がいるような気がしながらぼくは日々を送っている。


日頃の息苦しさは全部そいつのせいだ。
小さい頃の性格と今の性格が全く重なり合わずに変わったのもそいつのせいだ。
最近、気づいたらドーナツばかり食べちゃうのもそいつのせいだ。


ん?



ともかく控えめに言っても、ぼくの仮想敵はものすごく強い。

英語も中国語もビジネス会話レベルでどんな人とも対等にコミュニケーションが取れる。
大きな絵を描いてそれを実現させるための戦略も戦術も全て鮮やかに立案して実行まで手を動かすハイパープロフェッショナルだ。
ITリテラシーも高くフルスタックと言っても過言ではないくらいの技術も併せ持っている。
おざなりにしがちな経営の心臓となるファイナンス周りにも精通している。
チームメンバー一人一人の強みを見出して、成長と成果を同時に実現するようなとにかくスーパーハイパーな奴である。
そのうち「今ちょっと世界を変えるのに忙しいんで!」とか言い出しそう。

ここ数年でぼくも強くなったけど、仮想敵はいつもその上を超えてきやがるから困っている。
しんどい。終わりがない。休みたい。何もしたくない。恐らく、奴は鋼のメンタルだからそんなこと思わないのだろうと思うとばちくそむかつく。


ともあれそんなにっくき仮想敵は、ぼくが両親からプレゼントしてもらったものだ。
でも、両親もまたその上の両親から受け継いだ有難迷惑な遺産に存分に随分苦しめられたのだと思う。

ぼくの両親は意外と素直で従順なところがあったようなので、結構親の意見をすんなり受け入れて親のための人生を生きている期間が長かったようだ。
「勉強、勉強、勉強」と言われ、急かされ、情熱を感じていたことや、やってみたかったことも犠牲にして蓋をしてなかったことにして"頑張って"生きてきたのだと思う。
だから、途中でいろんなものがポロポロと崩壊してしまった。

もし若かりし頃の両親に会うことができたなら、

一度は親の期待なんか思う存分に裏切ってみなよ、ぼくみたいに!

と伝えてあげたい。
こんなこと書いたら現在進行形で親である人に怒られちゃうかもだけど。
本当に伝えたいこともしくは本当に聞いてみたいことを実行することほど難しいことはないと思うが、もし叶うならば。


◯比較を齎した者


人の期待に沿いながら生きることは、先の見えない暗い洞窟をただひたすら歩いていくことに似ていたというのはぼくの至極個人的で浅はかな経験論だ。
ずっと暗い洞窟のような場所から抜け出せない感覚を持ちながら、ただひたすらに存在意義の証明に駆り立てられていた時期の終わりに気づいたのは、ぼくが苦しんだように両親も苦しんだのだろうという至極単純なことだった。

毒親というのは、受け継いでしまった毒が辛過ぎて自らを御すことができなかった親を持った子の未来の姿だいうことも、また気づいたことの1つだ。

そういった気づきを分かち合ってきたことで、ぼくの母は随分丸くなった。見た目も中身も。

あ、見た目は元々丸かったのだけど。

ここ数年で、ぼくの母は思う存分に人生を楽しんでる愉快でふくよかなおばちゃんになった。
「なんでわたしゃ、あんなに親の言うことなんて聞いて頑張ってたんやろー。これからは好きなことしかやらへんぞ〜!」とかよく言っている。
そんな母だから、ぼくの友だちからはマスコットキャラクター的な扱いをされている人気者だ。
本人も満更ではなさそう。
いわゆる母親的な感じがしないので、ぼくも下の名前にちゃん付けで母のことを呼んでいる。

ぼくはそんな母がとても好きだ。

今の彼女のふくよかさは、つまみ食いとポテチと自分の為に生きていいんだという安心感で占められている。
科学的根拠はないけど、見たらわかる。
もう少し安心感のシェアを上げてもらって塩分控えめな健康体になってもらえれば言うことなしだ。


そろそろ怒られそうなのでこの辺にしておく。


◯親の声を聞くか、自分の声を聞くか


世の人の脳内をハックしている比較の項目は、

顔立ち、身長、スキル、年収、資産、誰と知り合いか、住んでいる場所、身につけているもの、学歴、そもそもの頭の良さ、成功の歴史とその持続状態などが挙げられるだろうか。

こういったものの中から無意識にどれかを選び取って自分と誰かを比較し、時に優越感に浸り、時に嫉妬を押し殺す。
追いつけ追い越せで生きているんだ。自覚があればまだいい方だと思う。


ぼくの両親の場合だと、学業→職業ステータス→子どもの学業と比較項目を変えながら生きていたように見受けられる。それらは2人がその両親から受け継いだものだ。
人が親から受け継ぐものは愛され方によって異なるのだろうと思う。
親から受け継いだものなんて負のものばっかりだと感じる人は、きっと愛されてはいたのだろうけどそれが適切なものではなかったのかな。
そもそも適切な愛し方なんてものがあるのであれば、誰か教えて欲しいが。
誰かにとっての適切は違う誰かにとっての不適切に決まってるから、そもそもそも適切なんて言葉は言葉として適切ではないのかもしれない。そもそもそもそも。

ぼくは親から絶対的に受け継ぐものは声だと思っている。
何か物事を判断したり決断を下すときに内から響いてくる声って大きく分けて2つあると思っていて。
「こうした方がいい」「こうすべき」「こうしなければ」といったタイプの声

「こうやりたい」「こうしたい」といったタイプの声
の2種類だ。

前者が親の声で後者が自分の声という風にぼくは分類している。


この2つの声のどちらが大きくシェアを占めているかで生きやすさが変わってくるのではないだろうか。
規範的なものって元を辿ればだいたいは親から聞いた言葉に行き着くと思っている。
規範的なものが全て悪だと言いたいわけではない。
規範に縛られ過ぎた結果、いつしか枷と呼べるような代物になった強固な規範を嵌めたまま生きていくのが悪だと言いたいのだ。
先述のぼくの母は、少しずつ自分の声のボリュームを上げていくことで側から見てもわかりやすくいきいき度が変わった。母は自分自身で枷を外していくことに成功しつつある人だ。

どちらの声に従いながら生きていくのかで生きやすさが劇的に変わるというのは、母を見て気づいたことだ。

もしかすると、自分の心の声を聞いてそれに従うのは、誰かを裏切るという行為につながるから踏み出せないと言う人もいるかもしれないけれど。

比較まみれの世界で誰かの期待に応え続けるのは無理ゲーで人生はちと短すぎる。

だから、一度くらい誰かからの期待なんて存分に裏切ってみることはお勧めする。

この御恩は100万回生まれ変わっても忘れません。たぶん。