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何があってもなくても~交通事故と私~時間の波に流されて~今~

うちには3人の子どもたちがいて、遊んたり勉強したり、喧嘩したりしてるわけで。

習い事はやっていない。

私は小学校の時の習い事。

剣道、ピアノ、習字、そろばん、を
1週間詰め込みでやっていた。

 中学時代は陸上部のエースを。(え)、
 高校時代は吹奏楽部でトロンボーンを3年間吹いていた。

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 私16歳、高二の春、学校の前の交差点で歩行者対車で、交通事故にあった。

10メートル飛ばされて、頭から落ちた、と、聞いている。

意識不明の重体で運ばれたので、ぶつかったときのこと全く覚えていない。

目を覚ましたのは事故から20日後だったらしい。

昏睡状態のときのことは何も覚えていない。

ただひたすら暗くて悪い夢を見ていた。

その夢を見ていた期間が、完全な昏睡状態の時だったのか、半昏睡状態のときのことだったのか分からない。

だだただひたすらに、暗くて悪い夢を見ていた。暗闇の中をさまよっていた。

そしてそれは、現実世界と半分リンクしているような夢に変わっていった。

今流行の明晰夢だったのかな?そんな状態に移行していった。

自力で食べ物飲み物を飲み込めない、
話せない、動けない、歩けない。

左半身麻痺だった。

自力で起き上がることもできず、
車椅子で移動できるようになっても、首が座らないので、頭を垂れまま、ただ乗っているしかできなかった。

途中、水頭症  を併発し、脳髄液を人工的に流すために脳から胃にかけてのシャント手術 というものをした。

#頭蓋骨骨折   と脳挫傷  の治療中のことだった。開頭手術 を2回した。


痛いも苦しいも覚えていない。たぶん感じることすら不能な脳の状態だったんだと思う。

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母親がいないと何もできなかった。

#嚥下困難 のため、食べ物も飲み物も飲み込めないので

# 鎖骨下の動脈  に点滴を刺され、そこから継続的に栄養を流していた。

しかし、錯乱状態の私は、夢と現実をごちゃ混ぜになっているため、その動脈に挿された太い針を力任せに引っ張って抜いた。

何度もそれを繰り返していた。(今振り返るとどんな状態だったのか理解できるが、当時は皆無だった)

その度に夜中の病室は看護師さんと母親が慌ただしく対応している中、私は血まみれで半分夢の中だった。

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私は3ヶ月の、辛くてカオスな治療生活と、3ヶ月のリハビリ入院を、経て歩けるようにはなった。

 でも、一度壊れた脳は、完全なものではないので、20年超経った今でもたまに狂ってることに気づく。

高次脳機能障害。

と、はっきり認められたことはないが、ちょこちょこ、故障している部分がたくさんある。どっちだよ?

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当時、私は16歳から1歳の幼子に戻ったような状態だった。

誰かの手を煩わせないと何も一人で出来なかった。

体と意識は16、7歳なので、体と頭のギャップでとても惨めな思いを抱いていた。 

手先も、上手く動かせなかったので、作業療法士の先生と手探りでリハビリをした。

 当時は私のような事例が少なかったようだ。

退院後何年経っても、運動機能は底辺中の底辺のままで。

歩ければいいと思っていた私は、最低限のリハビリしかしなかったため、

今でも階段は手すりに捕まらないと上手に登れない。

下りなんて恐ろしすぎて、一種のアトラクションである。

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子供の習い事の話。

私は、事故前に出来ていたことは事故後できなくなった。今は年齢的な体力を理由にできるが、10代20代の頃は辛かった。

人間関係もうまく作れず、体も思うように動かず辛かった。思うようにいかない日々の中での一人暮らし。ひたすら孤独を感じていた。

脳みその損傷は目には見えず、
何事もうまくできない個体の私は、ポンコツ、のレッテルを貼られ続けた。

特に仕事では何一つまともにできずに、心無い言葉何度もを浴びせられた。

そんな私の心は萎縮の一途を辿る。

普通の形の個体として世にでているので、普通の個体としての扱いと評価を受けるわけで、

その評価はいつも地については、誰かの足で踏み潰された。

そんな私が抱えている違和感や不快感。
変なリズム感や、破綻したバランス感覚。
人とは違うところで脳が察知する恐怖  etc…。

何事も思うように出来なくて、それは子育てにも発揮されたため、長女を産んだ瞬間から慢性的な育児ノイローゼに陥いる。

子どもたちの学校生活や友達関係や私のママ友関係のことを思い悩んでは、心と体がフリーズする日々だった。

コロナのおかげで学校や人と距離を取ることができたのは、私にとって幸いなことだった。

子育て中の今、小中学時代にいじめにあった黒い過去の記憶はか、何度も何度も夢に出てきては私の脳を蝕んで、頭から離れなかった。

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そうそう、子供の習い事の話。

その前に、私の子供の頃の話。

解り合える友はおらず、家では絵ばかり書いていた。

周りにはいつも同級生がはいたけれど、命令と仲間はずれを繰り返す、しょうもない人たちに囲まれていたせいで、

散々な小学生時代だった。

 中1、出席番号が1つ前の女の子に、目をつけられて、ずたずたにイジメられた。

トイレ掃除の際に、汚物入れの中身をトイレの床にバラまかれて、拾うように命令された。

私はそれをヘラヘラしながら拾った。
その後個室で一人泣いた。

 その子とは、一年の3ヶ月間同じ生活班だで散々いじめられたが、その後関わる事はなかった。

その子の化けの皮は二学期には剥がれていて、その後孤立の一途を辿っていた。

私はというと、一部の男子からブスと言われているのを知っていたので、廊下を歩くときはいつも下を向いていた。

中学卒業後は少し離れた高校へ通った。気の合う友達もできて、部活に励み、とても充実していた。

生まれてはじめて、
「学校楽しい」
という文言を、私が発したので、母は驚いたのか安堵したのか、その時のことを今でも話してくる。

その直後、高2の春に、交通事故にあい、生死をさまよった挙げ句、ポンコツ人間としての人生を歩み始めることになる。

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時計とカレンダーが発明されたから、時間という概念が私達にはある。

それらがなければ、あるのは今だけ。

でも私達はか弱くて愚かな人間だから、そんな実態のあってないような、時間なんてものに支配されている。

つらい過去なんて跡形もなく捨て去りたいのに、有能で無能な脳みそは黒い過去を鮮明にフラッシュバックさせてきたりする。

脳は味方か敵なのか?

分からないけど、

人生何が起こるかわからないので、

結果、なんの役に立つものでなかったとしても、

体で覚えたことは脳はちゃんと覚えておいてくれるということもしてくれるから。

結果なんて出なくても、その記憶が糧となって返ってくるときが来ると思う。


だって、39歳の今の私は、絵を描くことが好きだから。

昔好きだった絵を描くことが、落ち込んだときに私を励ましてくれるかけがえのない趣味として、私の元に帰ってきてくれたから。

人生の無駄を決めるのは今じゃない。

今を生き続ければ、きっとどこかにたどり着ける。

「今」をジャッジするなんて誰にも不可能なはずで、ただ私達は、正解も不正解も何もな時間の波に乗っているだけ。


何度流されても、たどり着いた場所からまた始めるしかできないんだと思う。

そんな今を生きる。


合掌。

 長文読んでくださりありがとうございました(__)


@スター@

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