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ヒューマン・バラク・オバマ  第2回:バラク・オバマは「黒人」なのか~人種ミックスの孤独

■人間としてのバラク・オバマと、彼がアメリカに与えた影響を描く連載■


バラク・オバマは2008年の大統領選で「米国史上初のアフリカ系大統領」として世界中の注目を集めた。あれから2期8年を経て来年1月に退任した後は、やはり「米国史上初のアフリカ系大統領」として教科書や歴史書に永久にその名を残す。


しかし、オバマ大統領は単に「黒人」なのだろうか。父親はケニア人、母親はアメリカ白人。バラク・オバマのアイデンティティは果たして「黒人」なのか、「白人でもある」のか、「ミックス」なのか。はたまた「アメリカ人」なのか、それとも「ケニア人」なのか。


以下はバラク・オバマの子ども時代のタイムライン。彼の複雑な人種バックグラウンドがよく分かる。


1959
後にバラク・オバマの母となるアン・ダンハムが両親と共にカンザス州からハワイ州に引越す。後にバラク・オバマの父となるバラク・オバマSr.がアフリカのケニアからハワイ州に留学生としてやってくる


1960
アン(当時18歳)とバラクSr.(当時24歳)がハワイ大学のロシア語クラスで出逢い、翌年2月に結婚


1961
8月4日にホノルルの病院でバラク・フセイン・オバマ誕生


1961
8月後半に母アンは乳児バラクJr.を連れてワシントン州の大学へ。父バラクSr.はハワイ大学に留まる


1962
父バラクSr.はマサチューセッツ州のハーヴァード大学へ。母アンとバラクJr.はハワイに戻る


1964
母アンと父バラクSr.が離婚。父バラクSr.はケニアへ帰国、再婚


1965
母アンがインドネシアからの留学生ロロ・ソエトロと再婚


1966
義父ロロが単身インドネシアへ戻る


1967
母アンとバラクJr.(当時6歳)もインドネシアへ


1970
母アンと義父ロロの間にマヤ(バラクJr.の妹)誕生


1971
バラクJr.(当時10歳)のみハワイに戻り、祖父母と暮らす


1971
父バラクSr.がハワイを1ヶ月のみ再訪。バラクJr.は物心ついて以来、初めて父と会う。後に父はケニアで交通事故により死亡するため、バラクJr.が父と会ったのはこの時のみ。母アンは1995年にガンにより他界


要約するとケニア人の父はオバマ誕生後に帰国してしまい、オバマは父の記憶が無いまま、白人である母と祖父母にハワイで育てられている。6歳から10歳まではインドネシアで過ごし、白人の母とインドネシア人の義父との間に妹が誕生。インドネシアからの帰国後、オバマはハワイという黒人が非常に少ない州で多感な中高生時代を送る。ホノルルの黒人人口比はわずか3.3%であり、当時の写真を見ると、白人とアジア系の友人たちに囲まれ、黒人少年はオバマひとり。オバマの自著『マイ・ドリーム~バラク・オバマ自伝(原題:Dreams from My Father)』(ダイヤモンド社)を読むと、驚くほど多くの部分が黒人としてのアイデンティティ模索の表記となっており、それは成人した後の章でも延々と続く。


■黒い人形、白い人形


アメリカは人種社会だ。ゆえに異なる人種のミックスはアイデンティティの確立に苦しむ。


物心つく前の子どもたちに人種は関係ない。ニューヨークでも、たとえば地下鉄の中で離れた座席にいる幼い子どもたち~白人、黒人、ラティーノ、アジア系、何であれ、それぞれ親に抱かれていたり、ベビーストローラーに座っていたり~がじっと見つめ合う光景をよく見掛ける。お互いの外観が物珍しいからではなく、単に子ども同士として引き合っているのだ。もし同じ部屋に座らせると、何の躊躇もなく一緒に遊び出す。


しかし、その後は徐々に人種について学び始める。そもそも多くの子どもは人種別に隔離された地区に住んでいる。ハーレム、チャイナタウン、ヒスパニック地区、白人の居住エリアなどなど。各地区には人種民族特有の文化(食事、音楽やダンス、スポーツ、話し方、親の職業、所得etc.)が色濃くあり、子どもたちはそれを吸収しながら育つ。マイノリティの場合はマイノリティとしての社会的ハンデを背負わされているにせよ、コミュニティにいる限り文化的には心地よい。裏を返せば、他の人種の文化を知るチャンスがない。具体的に言えば、黒人の子どもはヒップホップとバスケットボールは自然と覚えてしまうが、クラシック音楽やスキーはなかなか体験できない。


さらに黒人の場合は周囲から「黒人は劣等」の刷り込みが行われる。有名な実験がある。黒い人形と白い人形を並べ、黒人の子どもたちに「どっちが可愛い?」「どっちが良い子?」と聞くと、多くの子どもが白い人形を指差す。「どっちが醜い?」「どっちが悪い子?」と聞くと、多くの子が黒い人形を指す。理由はそれぞれ単に「白人だから」「黒人だから」。ある女の子は「どっちが自分に似ている?」と聞かれ、辛そうな顔付きで黒人の人形を指差すが、その人形に触れようとはしない。(*)


(*:子どもにとって非常に厳しい質問が為されたためと思われる。遊びの場では黒人の人形を「私にそっくり」と喜ぶ子どもは多い)


■人種ミックスの孤独


子ども時代のバラク・オバマは白人社会とインドネシアで育ち、アメリカの黒人文化を学ぶチャンスがなかった。


しかし、周囲は彼をその外観から黒人としてしか扱わない。白人の血が半分入っていること、アジアで暮し、アジア人の義父と妹がいることなど他者は知る由もない。本人がそうした複雑なバックグラウンドを説明したところで、その体験や心情を誰も理解できない。したがってオバマ本人も10代になると自分は黒人だという意識を急速に強めていく。バラク・オバマには、それしか道は無かった。奴隷制時代に由来する「一滴でも黒人の血が流れているなら黒人」の法則は、現代アメリカにもそのまま残っているのである。


高校を卒業後、いったん西海岸の大学に進んだオバマがニューヨークのコロンビア大学に移った理由は、黒人街ハーレムに近い場所にあるからだった。しかし、そこでもゲトーの黒人たちと、白人中流家庭に育った自分との間に埋めようの無い距離感を抱く。


その時期、オバマは最愛の母アンもまた黒人を真には理解していないことを知る。聡明だが純真過ぎる母は、黒人の美しく“エキゾチック”な面に憧れる少女に過ぎなかった。妹マヤとは人種ミックスであることは共有できたが、マヤも黒人ではなかった。


このように人種社会アメリカで人種ミックスとして育つことは、時に深い孤独感を生む。


その後、オバマはシカゴの黒人ゲトーに地域オーガナイザーとして出向く。優秀なオバマにはもっと割りのいい仕事がいくらでもあったにもかかわらず。そこでミシェルと知り合うのだが、シカゴで5年働いた後、オバマはハーヴァード大学ロースクールに進む。卒業後にミシェルと結婚してシカゴに戻り、シカゴ大学で以後12年間、憲法を教える。教授時代の後半にはイリノイ州議員に立候補して当選し、教授との兼務を果たす。その後、上院議員となって民主党の若きスターとして注目され、ついに2008年の大統領選でアメリカ初の黒人大統領誕生という奇蹟を起こすに至ったのである。


■「黒人度数が足りない」


オバマ大統領は「黒人度数が足りない」と言われる。「対立者と融和を試み過ぎる」とも言われる。実のところ、だからこそ大統領に当選したと言える。


オバマ大統領のアイデンティティは黒人だ。2010年の国勢調査時、人種欄のどれを選ぶかと聞かれ、「黒人」と答えている。母親が白人なので「白人」を選ぶか、人種ミックスとして「その他」を選ぶことも出来るのだが、これはオバマ大統領のアメリカに対する黒人宣言だった。


しかし、大統領とは特定の人種を代表し、その便宜を図る仕事ではない。仮にそうしたくとも全米の黒人人口は13%に過ぎず、最大多数派の白人票を得なければ当選できない。黒人差別が色濃く残るアメリカで白人に票を投じさせたのが、オバマの政治家としての能力と人柄以外に、外観も態度も「ステレオタイプな黒人過ぎない」ことが大きく作用したはずだ。


オバマ大統領が対立者と話し合いによる融和を試みることにも必然性がある。黒人が中央社会で成功を収めようとする過程では「黒人だから」というだけの理由で反発が起きる。直裁な人種差別もあれば、社会の仕組みに黒人が不利になる構造が組み込まれていることもある。それに対して毎回、その場その場で烈火の如く怒っていては本来の目標を果たせなくなる。黒人だからという理由で反発してくる相手に対し、その差別的な態度には敢えて目をつむって議事内容を話し合い、相手を説得、納得させて賛同を取り付けなければ政治家として機能できない。白人やアジア人と共に育ってきたオバマは、他人種と自然に馴染めるという大きなアドバンテージを持っている。


とは言え、人種差別主義者の「黒人大統領」に対する抵抗は凄まじい。ネットにはオバマと猿をコラージュした写真が溢れている。ある政治家はホワイトハウスが黒人の好物とされるスイカの畑になった絵をバラまいた。共和党がオバマ政権の法案をことごとく否決するのは言わずもがなだが、急死した最高裁判事への追悼を述べる前に「オバマに判事の指名はさせない」と口走るなど、共和党の上院院内総務ミッチ・マコーネルの態度は度を過ぎている。また、いったんは減っていたKKKなどヘイト団体が再度増えた。ホワイトハウスは公表しないが、暗殺も含めた脅迫はかなりあるものと思われる。


ドナルド・トランプも「オバマはケニア生まれで大統領の資格は無い」「アメリカ生まれなら出生証明書を見せろ」と唱えるバーサー(出生国主義者)に便乗した。次元の低い人種差別はスルーしてきたオバマ大統領だが、トランプには強烈な仕返しをお見舞いした。トランプも招かれた2011年の特派員晩餐会で、「私の出生の瞬間のビデオを初公開します!」と言って、『ライオン・キング』の仔ライオン誕生のシーンを上映し、会場は大爆笑。晩餐会は全米中継されており、トランプは国中の笑い者となった。


その一方で、黒人知識人コーネル・ウェスト、今回の大統領選に共和党から立候補していた黒人の元脳神経外科医ベン・カーソンは「奴隷の祖先を持たず、白人に育てられたオバマは自分と違って十分に黒人ではない」と批判している。


■アメリカの「黒人」の定義


当選後も「黒人として」のメッセージをほとんど発しなかったオバマ大統領だが、2012年に17歳の黒人少年トレイヴォン・マーティンが自称自警団の男に射殺された時には「トレイヴォンは私の息子でもあり得たし、35年前の私自身でもあり得た」と言った。さらに「私自身も含めてアフリカン・アメリカン男性の多くが、デパートで万引きしないかと警備員に付けられたり、歩いているだけで駐車中の車のドアを中からロックされたり、エレベーターで乗り合わせた女性が引ったくられないようにバッグを抱え直したりという経験をしている」と語った。


このように黒人男性には犯罪と暴力のステレオタイプが付きまとう。暴力を伴う犯罪は貧困の副産物だ。貧困を無くせば犯罪は減り、ステレオタイプも是正され、何より黒人男性自身と社会が幸福になれる。貧困から脱するために必要なのは教育だ。そこでオバマ大統領は2年前に黒人とラティーノの生徒と若者を支援する「マイ・ブラザーズ・キーパー」というプロジェクトを立ち上げた。オバマ大統領はこのプロジェクトを「一生続けていく」と宣言している。


バラク・フセイン・オバマは、アメリカという国と社会によって形作られた黒人なのである。時代や場所が違えば黒人ではなかったかもしれない。だが、今のアメリカに於いては黒人であり、ただし他の誰とも違う生い立ちを課せられたからこそ、他者が持てない独特の視点を持ち、ゆえに黒人社会と中央社会を繋ぐことが可能なのである。


オバマ一族の写真 2013年大統領就任式の日

写真左から
ミシェルの兄
兄の娘(オバマの姪)
兄の息子(オバマの甥)
ミシェルの母
ミシェル
二女サーシャ
バラク・オバマ
長女マリア
オバマの姉の娘(オバマの姪)
オバマの姉(実父の最初の妻の長女)
オバマの妹(白人+インドネシア)
オバマの妹の夫(カナダ生まれのマレーシア系)
オバマの妹夫妻の娘2人(オバマの姪)


ヒューマン・バラク・オバマ
第1回:父親としてのオバマ大統領「私はフェミニスト」




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