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【創作】ふと忘れそうになるけれど(敷島荘にて)

 土曜の夜、部屋に牧園がやって来た。
 
「文《あや》さーん、失礼しゃーす」
「おーう、お疲れー」

 牧園は私の部屋に入ると、まるで勝手知ったる我が家の如く、三枚ある座布団のうちの一枚にどかりと座り込み、手元のものを卓袱台の上に並べ出した。今し方、下の厨房で作ってきたと思しきつまみ数品、麓の街のスーパーで買った菓子類、ペール一杯のでかい氷、世界各国の不思議な酒、コップと栓の抜かれたビール……。手早く注いで軽く乾杯。

「今日のポークステーキどうでした?」
「ああ、美味かったよ。肉自体も旨かったけど、あのソースが特に良かった」
「あれ良いっしょ? 最近の研究の成果なんすよ〜。バルサミコ酢と地元の柑橘類で味組み立てて、こないだやっと納得いくものが出来たんす」

 我が意を得たりと、牧園は笑った。
 牧園はシステムエンジニア兼、電気屋店員兼、料理人という特異な職種の人間で、平日は麓の街の電気屋に勤め、エアコンを直したり冷蔵庫を売ったり、よく分からんパソコンの仕事をこなしたりしている。そして金曜と土曜のみ、この伊織川温泉郷の宿・敷島荘の料理人をしている。

「……今日の酒、これ何だ? 度数は強いけどやけにフルーティっていうか……カスタードみたいな香りもあるな。無熟成のラム?」
「面白いっしょ。『アラック』っていうインドネシアの地酒っす。原料の一つがココナッツなんで、ブランデーやラムとはまた違う面白さがあるんすよ」

 私が常宿にしているこの敷島荘は、食事が提供されず、客が厨房を借りて自炊する、所謂「木賃宿《きちんやど》」であるが、週末に限り、一泊二食付のプランを要予約で受け付けている。
 そうした予約があった週は、牧園が料理人としてこの敷島荘に出張ってくる訳である。彼は麓の街で仕入れを済ませ、でかいクーラーボックスを抱えて昼過ぎに出勤してくる。宿泊客がチェックインする前に温泉に浸かり、宿泊客用の夕食の支度をする。食事を出し終え、翌朝の仕込みと厨房の清掃を終えると、彼は決まって、酒を抱えて私の部屋に押しかけてくる。

「俗世はコロナでえらいことっすよ。世捨て人の文さんは知らんでしょう」
「開幕ディス止めろ。さすがにコロナは知ってるよ」
「巷じゃ此度の一件で、都《みやこ》の若者どもが地方に散らばるって声を耳にしますが、文さんはどう思います」
「なんも変わらんよ」私は即答した。
「変わんないすかね? 都にいればコロナに罹る。仕事がリモート化すれば都心に暮らすメリットは小さくなるし、実際、今年の春の東京への転入者は例年の半分だったらしいっすよ」
「ひと段落つけば元通りになるよ。感染症がどれほど拡大しようとも、東京を東京たらしめている魅力は一切衰えてないし、地方の面白さが増した訳でもない。今回のパンデミックが、若者を地方に分散させる外圧として機能するとは……私には到底思えない」

 牧園はそれには答えず、二つのグラスに氷と酒を注ぎ足した。私は続けた。

「ここいら田舎じゃ、コロナに罹ればすぐ個人を特定される。場所によっては犯罪者扱いだ。現代社会に於けるパンデミックの本質的症状は、発熱や倦怠感や死のリスクなんかじゃなくて、周りからの風評被害だと……今回の一件ではっきりと分かったよ。その点で言えば、コロナの症状は、都市部よりも田舎の方が余程重篤だ。リスク回避の為に地方に移住なんてのは、地方に住んだことのない年寄りどもの戯言さ」
「かっけー。文さん、素敵っす」
「茶化すな」
「まあでも確かに、都のツレも、これを期にこっちに戻ろうたあ思ってないっすね。向こうは娯楽が多い。遊ぶ場所がパチ屋とおばちゃんスナックしかないこっちに戻ったら、奴ら二日も保たんでしょう」

 けらけらと笑って、牧園はグラスの酒をぐいと飲み干し、つまみのナッツを口に放り込んだ。

「でもそれを言えば、文さんはなんでこんなボロ宿に暮らしてるんすか?」
「私か?」
「文さんの言い分が正しいなら、なんで文さん自身は魅力的な東京に住まず、こんなド田舎の木賃宿に暮らしてるんすか」
「簡単な話だ。単に都会の混み込みしたのが嫌いなだけさ。今の仕事はパソコン一つあれば出来るから、どこに住んでも不都合ない。だから、自分が一番暮らしやすい場所を探して日本中を転々として……結果的にこの伊織川に流れ着いた。それだけさ」
「はは、やっぱ文さんは変わってんなぁ」
「そういう牧園は、東京には興味ないのか? あっちに住みたいとは思わんのか?」
「あー、住もうと思った事は、一度もないっすねぇ」牧園は答えた。
「推しのライブとか、洋酒関連のイベントなんかは殆ど向こうで行われるんで、羨ましいっちゃ羨ましいっすけど。今は欲しいものも大体通販で買えるんで、移住しようとまでは思わんすね」

 グラスの氷を指でからからと回しながら、牧園は言葉を続けた。

「この間、KIRINJIがスタジオライブやってくれたんすよ。コロナで中止になったツアーの振替公演で」
「おぉー、時代だなぁ」
「実際のライブだったら現場には行けなかったんで、ネット公演になってくれたのは逆にラッキーでした。インターネット様様っすね」
「確かに、パンデミックによってウェブ上のコンテンツが充実したのは良い事かもな。私もこないだのフジロック見たよ」
「マジすか。誰目当てだったんすか? 平沢師匠と清志郎?」
「当てるなよ」

 私たちはしばし音楽談義に花を咲かせた。酒が進み、度数の強いアラックは、気がつけば随分と減っていた。

「……それにしても、スマホの通信費、サブスクの月額料金、スタジオライブの電子チケット代、動画サイトのスパチャ、クラウドファンディング、推しのNOTEの購読料……今の若者の金のどれ程が、目に見えない、形が無い物に使われてるんすかね。おっさん達には分からんでしょうね」
「それを聞いて思い出したが、この間、ニュースサイトで面白い記事を見たよ。牧園はふるさと納税って知ってるか?」
「そりゃ勿論知ってますよ。俺も返礼品の地酒目当てでどこそこ納税してますもん」
「それがな、ここ最近、お礼の品なしを希望する納税が増えてるんだと。ただただ、地方を応援したい気持ちで納税をする奴らが増えてるんだと」
「へぇぇ……そりゃまた、良い人たちが現れたもんすね」
「現れたんじゃないのさ。最初から居たんだ」

 すっかり酒臭くなった息を吐き出し、私は言った。

「こうも暗い出来事ばかりが国を覆っていると、ふと忘れそうになるけれど、この世には善人が多いんだ。好きなもの、好きな土地、応援したい誰かの為に、何かをしたいって奴らは沢山居るんだ。私はそのニュースを読んで、久々に嬉しい、誇らしい気持ちになったよ」
「……そっすか」
「お金の使い方は明確に多様化している。だが、自分が好きなものに投資をするという考え方は、この時代にあって尚、力強く生きている。だから」
「だから?」

「コロナ禍が過ぎた暁には、若者達には是非いろんな所を旅して欲しいね。そうして、この世界に生きる誰しもが、好きな物や好きな土地を見つけられたなら……彼らがそれからどこに住もうとも、人と人との繋がりと、インターネットという手段が、きっとまた、明るいニュースを沢山作ってくれると……私は思うよ」

 クサい事言っちゃったな! と、私はワザと茶化して、グラスの酒を一気に呷った。牧園もそれに乗っかって、がははと笑いながら酒を飲んだ。
 二人とも深夜のテンションになっていて、心なしか声が大きくなっていた。それが良くなかったようだ。

「あー、また二人で飲んでるー」
「らぎちゃん?」

 果たして、引き戸をを開けて私の部屋に入ってきたのは、この敷島荘の女将の孫娘・敷島ゆらぎだった。彼女は私の部屋に入ると、まるで勝手知ったる我が家の如く、三枚ある座布団のうちの最後の一枚にぽふりと座り込み、卓袱台の上に並んだお菓子を一つ手に取った。風呂上りらしく、揺は彼女が寝巻きにしている中学校の頃のジャージ姿で、腰まで伸びた黒髪は濡れていて、首には『伊織川温泉郷 敷島荘』と、宿の電話番号が刺繍された洗いざらしのタオルが巻かれていた。

「揺ちゃん、お疲れっす。アイスティー作ってるっすよ。呑みます?」
「わぁ、ありがとうございます牧園さん! 晩ご飯美味しかったです。ご馳走様」
「うぇへへ、揺ちゃんみたいな可愛い娘にそんな言われたら、酔い回っちゃうっすよ〜」

 むさい男二人の酒の席に突如現れた女の子に、牧園は口元を緩ませてデレデレした。私はその様子に深く溜息をついて、良識ある大人として彼女に一言もの申そうと、グラスを置いて口を開いた。

「らぎちゃん、こんなとこ来ちゃ駄目だよ。こんな夜中に、おっさん達の酒盛りに混ざったって面白くないでしょ」
「文さんお酒臭い」
「ごめんなさい」
「別に良いでしょ、さっき宿題も済ませたし。それに文さんが言ったんじゃない。『何が好きか、何を良いと思うかは自分が決めろ』って」

 揺は焼酎グラスに注がれたアイスティーをこくこくと飲み、わずかに上気した顔をむうと歪めて、私に反論してくるのだった。

「あたしはあたしの意思でここに来たの。それを文さんが咎めるのはちぐはぐだわ」

 それを聞き、私は嘆息して天井を仰いだ。
 円形の蛍光灯に羽虫が一匹、勇猛果敢に挑みかかっていた。それらはぶつかる度にカンカンと小煩い音を立てていたが、建て付けが悪いこの古宿では珍しくない事だったので、牧園も揺も特に気にしていなかった。
 久方振りに飲み過ぎて、頭は少しクラクラしていた。窓の外から、伊織川の流れる音と、竹林で鳴く虫のざわめきが聞こえていた。

「そういや揺ちゃん、こないだのフジロック見たっすか?」
「あ、見ました見ました! 師匠が、もー、めっちゃ格好良くて」

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