人身攻撃の範囲

悪性:☠️☠️☠️

『人身攻撃』特に『人格攻撃』と呼ばれるものを字義的に捉えてしまうと、次のような混乱を生じやすい。すなわち、「主張って、けっきょくその主体の人格の表れであって、主張そのものに純然と攻撃する態度も、人格を攻撃していることになってしまうだろ?俺のやった人身攻撃を非難するならば、お前も『人身攻撃をやるような俺の人格』を人身攻撃していることになるのではないか!?」といった意見である。

たしかに、素朴に、『人格攻撃』の字面だけを追ってみようとすれば、『論敵の意見を否定すること』は、『論敵の人格を否定すること』を含意し、あらゆる意見対立を、互いに人格攻撃をし合っているのだと評価出来てしまいそうだ。

では、わざわざ論壇で「人身攻撃だ!」と指摘するのはナンセンス極まりないのだろうか?……これに対して、「そんなことはないだろう。」と答えるのが、本項の主目的である。

上述した諸問題を踏まえ、さらに、人身攻撃の指摘が実践されたこれまでの諸実態にかんがみれば、次のような峻別が見えてくる。すなわち、『論敵の意見を否定すること』と『論敵の人格を否定すること』について、『そのトピックに対して、演繹的な関係にある主体の言動に対する批判であるか、そのような関係にない主体の言動に対する批判であるか。』という基準が設けられているという見方である。

人身攻撃の範囲を、[その主体の人格に抵触するような批判一般]に解釈すると、論壇から、『指摘としての人身攻撃』を絶滅させてしまうし、それが実践されてきた場面との摩擦もひじょうに高くなり、不自然だが、これを、[主張と演繹的に関わらない、その主体の諸言動への批判一般]だと有意に解釈することは、人身攻撃の指摘が実践されてきたコンテクストに整合的だろう。

このような諸事情を考え、本書は前項で、『詭弁としての人身攻撃』を、次のように定義したのだった。

[トピックに対し、論理的に(真理関数的に)絡まない論敵の言動を非難することによって、そのトピックの真偽を結論するもの]

本項は、その主目的に伴い、この定義の合理性をいくらか補強できたと考えている。

端的に、冒頭のような意見に対しては、「いわゆる人身攻撃の解釈として穏当な範囲は、───本項で叙述したような理屈によって───批判や否定一般ではなく、主張に演繹的に絡まない、その主体の諸言動に対するものなんじゃないかな、おれが批判したニュアンスもそれだしね。」くらいのことを返せば、少なくとも当該の論点において、合理性では優越するだろう。

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