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【滝口寺伝承(2)火宅の女⑦】

隠岐回想~蝶々

千種忠顕は回想を続ける。

千波の津を頼りない船で漕ぎ出した帝一行を待ち受けていたのは如月の新月の闇。先頭の一艘目には有世と行房、真ん中に帝と千種忠顕、最後に女御らが続きます。

この凍てつく闇に落ちれば死。対岸にたどり着いたとて、鎌倉方の追手が伸びていればさらに非道い仕打ちが待っていましょう。

かの大覚寺統の主も、今は頼りなどなく本当に心細い御身となりました。この逃避行以前、伯耆国(ほうきのくに)の名和某(なにがし)が味方に名乗り出てくれたものの、それっきり便りは途絶えました。もしかしたら罠やもしれない、とは言え出雲国の塩冶(えんや)氏は隠岐の佐々木判官の縁者ゆえ、恐らく鎌倉方でしょうか。出雲か伯耆か、忠顕らは逡巡します。

船頭の漁父が「あの……急いで漕ぎ出ましたがどうすんでございましょう?」と不安そうに言いました。

忠顕は「あー、あーそうじゃな……。」ちらと有世を見ました。もはや一行は有世頼みです。

そのような大人を後目に、安倍有世(あべのありよ)は冷静でありました。舳先(みよし)につま先で立ち、闇の中でまるで宙にでも浮いているようでした。

「ふぅー。まぁーそろそろ松明(あかり)もいいでしょう。星の光だけでは心もとないですからねー。どうせ防人もしばらくは式神の虜でしょうから。」有世は無邪気な童子の笑みを浮かべています。

「そうそう、我が君、おのおの方ご照覧あれ。今、天禽星(北斗七星第五星)の光が強いですぞ。今のうち、今のうちー。あの北斗七星を背に潮の流れに乗れば伯耆国に着くでしょう。いま我が君に巽(たつみ)は吉方。天照の御加護が十分にありますぞー。」有世は右の拳を突きあげます。

「伯耆だったら10里以上先だ、こんな海が穏やかなら時間は掛るだよ。」船頭の漁父が言う。

「まあまあ。そこはがんばって漕いでくだされよー。ほれ、もー忠顕殿も行房殿も手伝ったらよろしかろう。あーあー我が君は結構。それから女御殿らは船足が遅くなるゆえ、そんないらない箱やらお荷物はお捨てくだされ。」いま、有世には分別も道理もありますので、忠顕らも女御もそれに従うしかありません。廉子らは唇を噛みしめながら、ドボンドボンと荷物を海に捨てていきます。

「すこし意地悪が過ぎましたかー。でも覚悟は決められたようですね。しからば……今から乾(いぬい)風を吹かせますので帆の向きを決めてくだされよー。」にっこりと微笑み、有世は手で印を結びはじめます。

「あら、こんな冬の海に蝶々かえ……。」女御らが湧き驚きます。ふわっ。一行の進む先、巽の闇へ光を帯びた蝶々が次々と消えてゆきます。その刹那突然乾からの風が一行を巻き上げます。
凍える寒さに身を屈め、進む先は闇が黄泉か。

「おーいおい。絶対に振り向いてはなりませんぞー。おのおの方は祈るのみです。振り向いてはなりませーん。邪念を捨てなされ、邪ね……は蛇を呼………まするー。」屈んでいても有世の声は聴こえる。まさか、この風で立っているのか⁉忠顕は有世の底知れぬ力に慄然としました。

一行を乗せた船は乾風を受け、ぐんぐん進んでいきます。見渡せば右も左も闇の中。しかし……船は突然、はたと止まります。

…………


しん……静寂(しじま)が帝一行を包みます。

「ちっ!あな、やくなし!」有世の翡翠の眼はうす曇ります。

隠岐回想~竜神

「あの……いったいどうしたもんでしょうか⁉船が……進まないだよ。」漁父が見渡す。周りには一行の三艘の船。


「…………有世!…………有世!」

その時、天から地に降り注ぎ轟く恐ろしい声が聴こえました。

「天の理をゆがめるは誰かと思えば有世!またお前か!この悪戯(いたずら)小僧!」鳥獣や、人の世ではまず聴いたことのない低く太い声が、忠顕らの腹にずんと響きます。

「あ……有世殿この声は⁉」

「あー……瑞獣様(ずいじゅう)です。四聖獣のひと柱であらせられる龍神様です。お出ましになられましたな。今はあまりお会いしとうなかったのですが……。」有世はばつが悪そうにしています。

「龍神様、申し訳ありません。エへへ……あの、ですね。これには深い訳がありまして……。」有世は忠顕らへの尊大な態度から一変し、神妙に天を仰ぎ応えます。

有世とは神か魔か⁉なみなみでない声の主と話しているではないか⁉忠顕らは胴震いがとまりません。

「かごとは良いわ!戯け者がぁ!今度という今度は許さんぞ!」声の主の怒りは波濤となって三枚の木の葉を襲います。すわ転覆っ……。忠顕らは船の縁につかまっているのがやっとです。

舳先の有世は真直ぐ立っていられず、手足をばたばたします。

「もーぅ!。せんかたなしよー。ええーい、我が君ー、この間のあれをー!懐紙にあれを包みなされー!そう!『それ』です。早く忠顕殿に渡して!」
有世は帝に差図し、帝は何やらを懐紙に包み忠顕に渡します。

「忠顕殿、『それ』を海へ!早く!」忠顕は有世に言われるまま見当もつけず「それ」海へ投げ入れます。

ずず……ず………波濤が収まり再び静寂が訪れます。


「有世よ……これで我が怒りを収めたつもりか……。」再び声がする。

「エヘン。」有世は咳払いをして、「まあ、あの、聴いてください。ほら、こちらは私が仕える天子様です。訳あって行幸の途中なのですよ。ですからね、ほんの少し天の理を変えて、エヘヘ……お助け申し上げたというか……そのぅ……。」

「悪戯小僧が天子の手助けじゃとな。笑い種(ぐさ)じゃ。良いか有世、先日警め(いましめ)たとおり、軽々に天の理をゆがめることまかりならんぞ。お前に許されるのは天を見て、理を知ることのみじゃ。ゆめゆめ忘れるでないぞ!さもなくば次は弾指(だんし)では済まさん!」声は次第に遠ざかっていきます。

「ときに有世、東方でまた戦乱が起きておるな。相容れぬ星の元に生まれた二人か……。ほう……そうか……ひとりはいずれ人間(じんかん)を束ねる大徳、ひとりは宝刀を手に入れて非業の死を遂げるか……。人間とは、げにも愚かな生き物よ。有世……、森羅万象を御そうなどと思わず、その力を人間のことなき御代(みよ)のために使え。中つ国がいまひとたび劫火(ごうか)に曝されるようであれば、我ら瑞獣も黙ってはおらんぞ……。」やがて声は聴こえなくなりました。

有世はほっと胸を撫でおろし、「ありがとうございます。龍神様。御言葉肝に銘じます。」ぺこりと海へ一礼し、合掌した。

隠岐回想~夜明け

「さぁさ、我が君、おのおの方、気を取り直して参りましょうー。伯耆国は目の前ですぞ。」帝一行は有世の一声でいよいよ生気を取り戻しました。三艘はちりぢりになりましたが、確かにかの地へ進んでおります。

やがて日の出が一行を包み始めます。

「おー陸(おか)が見えただよー。」漁父が指し示します。

有世の翡翠の瞳にも眩しい朝日が差し込んでまいりました。

帝一行は何とか伯耆の浦に到着いたしました。先に有世と行房、次に帝と忠顕が流れ着き、次いで女御たち……。

「あー有世殿、此度は礼を言う。おかげで隠岐から出ることができたわい。しかし、まるで生きた心地がしなかったわ。……ところで、わしが海に捧げた『あれ』はなんじゃったのか?」忠顕はとっぷりと疲れ果ててはいたが、小さな有世にさらに屈んで礼を述べました。

「『あれ』は仏舎利です。我が君が肌身に持っておるのを存じていたゆえ。困ったときは神仏に縋(すが)るのみですー。」
有世は小首を傾げながら続けます。
「私の星読みと結界破りまでは完璧だったのですよー。そもそも何か強い邪念がなければ龍神様もあそこまで昂り(たかぶり)ません。
それから……あのときどなたかが贄(にえ)を捧げられたようですねー。龍神様がすんなりお帰りなされましたことも合点がいきます。」

浜では少宰相殿が落水されて行方知れずとなられたことを嘆き悲しまれる帝の御姿がございました。

そして帝を慰める廉子様を、端から苦々しく見つめる行房殿がおりました。

隠岐回想~了

有世2
挿絵:キャミー

火宅の人⑧に続く

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