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滞在権訴訟 7/7

「ねえ、そろそろ」と僕は呟く。
 と瞬間、背後で甲高い悲鳴が上がり、陶器が割れる大きな音が響く。
 びっくりして振り向くと、レストランの入り口近くでテーブルが二卓横向きに倒れている。その周囲には皿とグラスが散乱していて、中央に倒れた人影がある。仰向けで倒れており、どうやら意識を失っているらしい。辺りの人々もみな一斉に息を止めていて、視線がそちらに向いている。僕はシンジにどうしたのだろうかと訊ねる。彼はやおら立ち上がる。僕の質問は聞こえていないらしい。彼はまっしぐらで倒れたテーブルへ急ぐ。僕は騒動そのものよりもシンジの慌てように驚いて呆然と辺りの様子を窺う。他に数人がシンジと同じ行動を取っていて、現場には段々と人だかりが出来上がる。いつの間にかマキもそこに加わっている。混乱した様子の人たちがきょろきょろと慌てふためく以外は、座ったままではまるっきり見えない。誰かが突然倒れた。それは犯罪ではないだろう。心臓発作に見舞われでもしたのかもしれない。レストランの責任者はもう救急車を呼んだのだろうか。そうなら、ぼくら客ができることはなにもない。人だかりに加わる必要はないのだ。
 しばらく喧々囂々とドイツ語らしき騒ぎ声が断続的に上がり、やっとシンジとマキが戻ってくる。二人は沈痛な面持ちで、少し顔を俯かせている。
「給仕の一人が発作を起こしたようです」とシンジは僕に告げる。「ラプスカウスを運んできた給仕です」
 ラプスカウスを運んできた給仕。つまり、肝硬変の男だ。案の定、と言ったところだ。きっと彼は、病に蝕まれた肉体を強い精神で駆り立て職務に打ち込んでいたのだ。だが、いつかは限界が訪れる。
「そうか」と僕が頷くと、シンジも僕に頷く。マキは無言で席に座る。
「おそらく心臓の発作でしょう。もしかすると癲癇かもしれません」とシンジはいくらか冷めた調子だ。「もう救急車が来るはずです」
「みなさん」と低い声がホールに響く。声の主は背の高い金髪の四十代くらいのドイツ人で、かっちりとウェイターの制服を着こなしている。支配人あたりだろう。雄弁な語りはどこか歌劇の一幕のようで、肝硬変の男が倒れたのもパフォーマンスの一環にすら思える。
「『ご迷惑をおかけ致しました。みなさんの有意義な時間に水を差してしまったこと、心よりお詫び申し上げます』とのことです」とシンジが僕のために通訳をしていると、若いウェイターがぼくらのテーブルにコーヒーカップを並べてゆく。
「『お詫びのしるし』だそうですよ」とシンジはさらに説明を添える。ふと気づけば、シンジの顔は真っ赤だ。
「彼は死んでしまうのだろうか」と僕はだれにともなくに訊ねる。唐突にひどく胃がムカムカして、なぜだかとても悲しい。自分でもなにを悲しんでいるのかわからない。けれどともかく悲しい。
 シンジは僕の質問に少し訝るみたいに眉をひそめるが、すぐに、ああと言って回答をする。「きっと大丈夫ですよ。僕らが駆けつけてしばらくして目を覚ましましたから」
「目を覚ましたのか」と僕はサービスのコーヒーを口に運ぶ。やはり上品で本物のコーヒーだ。けれど口に残った苦虫のせいで吐き気がする。「よかった」
「ところでNさん」と、微かにぶっきらぼうな調子でシンジは言う。「これから、天国と地獄の境界線上へ行こうと思っているんですが」
 僕は近視の老人みたいに目をすぼめてシンジを見つめる。悲しくって吐き気がする。天国と地獄の境界線上? 仰々しい物言いだ。冷静沈着なシンジに全く似つかわしくない。そうか、アルコールだ。彼もまたアルコールに呑まれてしまった!
「インダストリアルな空間の中、突き刺さる大音量のサウンドに呑まれ、ネオ・リベラリストは踊り狂う」とシンジは一気呵成に続ける。「なんて謳われるベルリン随一のクラブハウスの異名です。前にお話しましたよね? ベルリンはクラブシーンで有名です。せっかく来たんだ、天国と地獄の境界線上、行ってみましょうよ」
「僕はクラバーじゃないんだ」と僕は冷たく返す。息が苦しい。悲しさと吐き気だけじゃなくって、なんだかひどく苛立たしくもある。悪気はないのはわかる。けれど、なぜだがシンジの楽しそうな態度が癇にさわる。「だから、そういう輩のはびこる空間には足を踏み入れない。金輪際ね」
「ならぴったりです」と僕がうんざりしていると分かりきっているはずだが、シンジは平然とやはり嬉しげに言葉を返す。「内部の自由と享楽にアクセスすることができるのは、寛容で良識あるクラバーだけである、そうですよ。インターネットの受け売りで恐縮ですが」。彼はまたキュートに笑う。が、それも今では腹立たしい。「寛容と良識から最もかけ離れた日本のクラブとは大違いなはずです」
「私もクラバーじゃないけど」と突然マキが話に加わる。僕の気分なんて知らずに、なにごともなかったみたいに、けろりとしている。「でも行ってみたいな」
 案の定、マキの顔も真っ赤だ。暗がりでもよくわかる。人はアルコールに呑まれ、間違った方向に舵を切る。いや、間違っているのは間違いなく僕なのだろう。でも、もうこれ以上、ここで二人と一緒にいたくない。吐き気がする。ここを出て、一人になりたい。
「そこには門番がいます」とシンジは僕に笑いかける。「時間を純粋に楽しみ、そして時間と空間の感覚を失うことのできる人間だけが中に入ることができるそうです。有害とされた人物は門前で撥ねられる」
「有害とされる人物は首を刎ねられる。ギロチン」と僕は適当なことを並べ立てるが、頭の中では肝硬変の男のことを思い出し、そして、なにもかもが洗練されたこの空中レストランに耐えきれないほどの居心地の悪さを感じ、今にも零れそうなほど、胃の内容物がこみ上げてきている。僕はもうここにはいられない。もう、マキとシンジと一緒にいられない
「悪い」と僕は口にして立ち上がる。目の前の二人はぽかんと口を開け、なにも言わずに僕の動きを目で追いかける。僕はごそごそとジャケットのポケットから五〇ユーロ紙幣を取り出して、テーブルに叩きつける。ばたん。
「手洗いに行ってくる。支払いを済ませるだろう? これで頼むよ」
 シンジが頷くのと同時に、僕は席を立ち去って、エレベータホールへ向かう。やはりふしあなである僕は案内表示を見つけていないが、本能的に嗅ぎ分けたのか、気づけばトイレの扉を押している。中には誰もいない。レストランとは対照的に不潔だ。長らく手入れがされておらず黴臭い。僕は黄ばんだ便座に駆け寄り、便器に全身をもたせ掛けて、この数時間で口に入れたものを吐き出す。嘔吐は終わりが見えない。何度も何度も続いて、胃がビクビクと痙攣している。もう出すものなど残っていないはずなのに、まだ僕は吐く。次第に薄らと緑に滲んだ液体が口から垂れてくる。口中が酸っぱい。臭気に鼻が削げてしまったみたいに嗅覚が失せている。けれど少しずつ呼吸が落ち着きている。僕はもう一度息を止めて腹に力を込めて胃の中にこべりついたものを吐き出そうとする。けれどもうなにも出ない。僕はすっかり嘔吐したらしい。一分か二分か、深い呼吸を繰り返し、よろけながら立ち上がり、便器のレバーを押す。レバーのぬめりが手に付着する。茶色い嘔吐物はまさしくラプスカウスで、そこにコーヒーとアールズッペが絶妙に足されている。全てが渦を巻いて下水へと流れてゆく。洗面台に両手で凭れて鏡を見ると、顔がすっかり赤くなっている。見てみれば、手のひらも腕も真っ赤だ。もちろん目が充血している。やれやれ、たった二杯しか飲んでいないのに。目の前の男も肝硬変が怪しまれる。肝硬変の給仕。彼には愛してくれる人がいるのだろうか。唐突な死を迎えたとして、それを悲しむ存在があるのあろうか。知る由はない。でも、誰に理解されずとも、受容されずとも、先に待つのが惨めな死だけであろうとも、私は一人で生きてゆく。そんな風に言いそうだ。であれば、その心もまたドーナツだ。理想がどれだけ美しい言葉で響き、高邁な精神に基づこうと、本質的にはなにを欲しがることもないのだから。肝硬変の男は、いや違う、これは僕のことだ。だからこそ僕は、誰に認められることも惜しまれることもない。偶然にそこに居合わせた人間。街角の名もない死者。運が良ければ共同墓地へと丁重に埋葬されるかもしれない。けれど、僕の死を悼むものなどない。なぜなら、だれにも愛されなかったからだ。そして、なぜだれにも愛されなかったのかと言えば、単純だ、だれも愛さなかったからに他ならない。
 気づけば鏡の中で僕は涙を流している。僕は悲しんでいる。肝硬変の男を想ってなのかもしれない。自分の孤独な行く末を嘆いてなのかもしれない。だれも彼もが僕を受け容れてくれないからなのかもしれない。この世界は悲しみで溢れている。分かりきったことだ。ぼくらは誰ともわかり合えない。人はみな違うのだ。というかそもそも、悲しさの理由なんて探せばごまんとある。けれどきっと、今、僕が悲しんでいるのは、これまで愛した人の全てを損なってきた本当の理由だ。そう、僕は一度だって、誰かを愛したことなんてなかったのだ。
 カン、カン、カン。
 突然、金属音が鳴る。誰かがトイレの汚らしい扉を叩いている。
「あなた、大丈夫かしら」という英語は女のもので、聞き慣れない声だ。若い女と思しき、少し甘えるような調子がある。
 僕はしばらく鏡の前に立ち尽くして静止する。けれど、女はノックを繰り返し、呼びかけを止めない。その音と声が響くたび、僕の頭はじりじりと痛む。まるで細いアイスピックで突き刺されているみたいに。
「坊や、あなたとっても寂しそうな顔をしていたわ」と女は僕を痛めつける。「心配しているのよ。居るならはやく出てきて頂戴」
 僕は耐えきれずに扉を開ける。そこにいるのはやはり知らない女だ。三十台半ば、目は茶色で髪は肩に掛かるくらいのブルネット。一見、美人とも言えなくはないが、口元に浮かべた笑みは作り物でしかなく、唇は余りにも赤い。肌は抜けるように白いが、化粧を塗りたくったらしく青みがかっていて、やはりお世辞にも美人とは言いたくない。奥には幾筋もの皺が隠れているのは、弛んだ首筋から想像に難くない。厚手で安っぽい黒の光沢が張り付いたダウンジャケットを着ていて、その下は薄いランジェリーだけで胸元を強調しているが、骨張っておりあまりにも貧相だ。スカートは短く、下着が見えそうだが、すらりと伸びた足には幾つもシミがあり、異様に細く、化け物じみている。靴は分厚いヒールが踵に付いていて、同じ安っぽい赤で煌めいている。こいつは娼婦でしかない。
「ハッピーになった方がいいわ。具合が悪いのね、坊や。こんな場所にいてはダメよ。もっと素敵なところに行きましょう」
 娼婦は右手を差し出し僕の頬を撫でる。僕は即座に女の腕を払って、立ち去ろうと女の脇を抜けてゆく。が、女が軽いステップで立ちはだかる。
 僕は無言で女を睨み付ける。頭の痛みがまだ残っている。気色の悪い笑みがまだこちらを向いている。
「代償も失うものもないのよ。でも気分は良くなる。そういうのって、最高じゃない?」と娼婦はケタケタと笑う。
「頼むから消えてくれ」と僕は霞んでゆく意識をなんとか保とうとする。「頼むから、今すぐ出て行ってくれ」
 女は笑い続けている。張り付いただけの空っぽの笑顔の奥で泥沼のように濁った心が見て取れる。
「どこから出て行くっていうのかしら?」と娼婦の笑い声もまた、僕の頭を突き刺す。
「なんだっていい」と僕は精一杯凄みを込める。「僕の前から消えろ」
「なら、あなたが消えればいいだけの話よ」と女は言い、淫らというより下品な笑いを添える。「でもね、消えるのは私でもあなたでもない。あなたと私が消えるの。一緒にね。坊や、寂しがり屋なんでしょ? わかるわ。お金のことは気にしなくていい。ただ、私はお喋りがしたいの、あなたと、ね」
 もう限界だ。体は疲れ果てている。なにもかもにうんざりしている。瞬間、意識が飛んで、正気に戻ると僕はうな垂れ女の肩に倒れ込んでいる。
「あらあら」と娼婦は壊れたおもちゃみたいに笑い続ける。「さあ、行きましょうね。こんなと場所はおさらばしましょう」
「どこにいく」と僕はなんとか声を出すが、言葉は切れ切れにしかならない。
「安心していいわ。ずっと素敵なところよ」と娼婦は言うが、僕の頭はその意味を認識できない。
「こんなところでこと切れるなんて」と僕は辛うじて声を上げる。が、力が入らず言葉が続かない。
 意識は薄れ、僕は娼婦の肩に寄りかかっている。弱りきった犬みたいに小さく唸りながら、すっかり身を委ねている。外套を取りに行かなくては。クオークに預けたままだ。そう気づくときにはもう、僕はエレベータに押し込まれている。狭くて古い昇降機。それは上昇していると錯覚させるほどにゆっくりと僕を塔の下に運んでゆく。もう美しい夜景の見える洗練されたレストランには戻れない。空っぽな心に残ったのは恥辱と幾ばくかの悲しさだけだ。
「ひどい結末だ」と僕は呟く。
「あなたはどんなハッピーを望んでいるの?」と娼婦がケタケタと笑いを上げる。
 塔を出ると、ネオンだけが輝く閑散とした街には音もなく雪が降っている。
 冬だ。

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