【ひとはどこまで他者を傷つけていいのか:導入】

Ⅰ.長ったらしい前置き——存在についての補足


「傷つける」という言葉は少なくとも多少の関わり合いを孕んでいる。「関わり合うのはなにか」と問えば、それは認識のレベルにおいては「個人と個人」であり、本質においては「存在と存在」だ。ゆえに、まずは存在に対する概念を整理し、複数の心象を堆積(→→→発酵)させておくべきであるように思う。


〈K、海へ〉

存在は歪んだ卵だ(存在はドーナツであるわけだが、ここは存在を歪んだ卵だと想像しよう)。この固い殻の中からなにが孵るかだれも知らない。いや、そもそも雛が孵るかもわからない。何が入っているのか知るには割るしかない。なら、割ってしまえばいい? どうかな。そんなことをしてよいのかな。ぼくらはどこまで他者を傷つけて良いんだ? 多分、割っちゃいけない、なんとなくそんな気がする。料理もしないのに卵を割るなんて、ハロウィーンを除けば許されはしない(ハロウィーンの日、実はぼくらはコスチュームに身を包むことで、装いとは正反対に存在を発露し合っているのかもしれない——逆説は、より真理に近いように聞こえる特徴があるね)。卵は大事にしなくっちゃ、ここのところ値上げも天井がみえない状態だ。閑話休題、ともあれ存在の本質は謎に包まれている。われわれに認識できるのは、その歪な形と外殻の感触だけだ。かの馬鹿馬鹿しいシュレディンガーの猫と同じで、殻が割れるまでなにも分からない。そして恐らく割ってはいけないがゆえに、自ずとそれが出てくるまで、この中身たる存在の正体は知れない。あらゆる可能性と能力があり、あるいは何もない。


〈歴史、地層〉

存在は焼成前のパン生地でもある。ここには複雑に練り込まれた褶曲があり、内も外もなく、ぼくらはどんな形へもそれを捏ね上げることができる。朝食用のクロワッサンにしたっていいし、ベーコントースト用に食パンでもいい(むろんドーナツだって、なんだって)。これは歪んだ卵の進化形なのか? あるいはそうであり、そうでもない。常識を一すくいイースト菌のごと振り掛け、卵に諸々を加えればパン生地となるが、一方で、このパン生地は卵に還ることもある(存在は可逆/可塑的)。その上、存在は同時に歪んだ卵でもパン生地でもある(そしてドーナツである)。つまり、認識に内在する錯誤が問題なのだろう——存在は「生成し続ける三次元のだまし絵」と言ってもいいのかもしれない。


〈事件:ドーナツ死す、矛盾する詩として〉

つまり、存在は脆く柔く、固くしなやかで、だがいずれにせよ常に歪んでいて丸っこい多面体だ。そして決まった形はない、つねに分裂し増殖し、隆起し沈降し、発酵し凝固している。ゆえに、この記述の通り、存在は思考において矛盾の中にあり、言葉においては詩の中にある。あるいは死こそが最も存在に等しい存在だ。


〈問いへの接合面、あるいはゲーム盤〉

このように複合的で立体的な途轍もない存在である存在が認識と接地する面が、自己であり他者である(どの存在であれ、各々に自己と認識すべき存在体と他者と認識すべき存在体が混在している点に留意)。そしてこの接触行為こそが「人と人との関わり」だ。加え、「関わり」は本質を交わし合えば合うほど、ある種の賭け事に似てくる。なぜなら、いかなる思考も論理も、「関わり」の結果を予想し得ず、つまり関わりとは(偶然に起こる)事件——つまり遊戯/ゲームだ(賽子を振るのは神? 神は賽子を振る?)。ゲームの前後でわれわれが持つものは変化している——不可逆の戯れ:恋をすれば、仕事にすれば、人を殺せば、我々はもう以前の我々ではない。そしてわれわれは基本的に延々とゲームを続ける。まるで負け続けの賭博師のように、トップ雀士のように、総計で勝っていようが、自らの損失を、余剰を循環させ続けずにはいられない——本質的には意味もなく再生産される人とこの遺伝子、生じ続ける政変と新たな政体、循環こそが至上命題たる市場経済、無意味に吐き出され続けるこの言葉(ああ欲望、こいつは留まることを知らない。われわれは欲望の歯車に過ぎない)。この戯れには時に些末な賞金が賭けられる。あるいは時に命が掛けられる。遊戯であるがゆえに反則行為が(倫理・道徳、法律と言われる)、必勝法と喧伝される技法が(「人を動かす」類いの指南書など格好の例だ)、イカサマすれすれの小細工(詐欺・洗脳)が存在し、そしてまた不可避に始まるゲームへの忌避感を抱く者もいる——彼は人間嫌いに始まり、自称象牙の塔に蟄居し、そしてこの行き着く果てはあるいは自殺であり発狂だ。このゲームのやり方をぼくらなり(※)に考えてみよう——定められた反則行為とは別に、プレイヤー毎に禁じ手があり、そのちっぽけで尊大な矜持から各々に許せない行為が様々存在する。この前提をわれわれの意思疎通の接合面として、つまりはゲームボードとして、無価値な戯れで豊かに膨らんだ言葉と、複合的な意味をじゃらじゃらとあちらこちらに転がそう。



〈本論の前に〉

※ われわれはどこまで他者を傷つけていいのかという問いは以下の識別と根底的な問い/逡巡を放置した上で考察されうる。

(ⅰ)他者との関わりと見做されるもの——関わりと認知される閾値はどこにあるのか? あるいはわれわれは常に他者と関わっているが、それを無関係と見なすこともできる(同じ通勤電車に毎日乗り合わせる名も知らぬ人に親近感を抱く一方で、金婚を越えた冷え切った夫婦は互いを最も遠い不可解な他者と感じる)。要は強度の問題、ここは無考慮な領域とさせてもらう。関わりは関わりだ。定義はしない。

(ⅱ)適当な関わりと分別されるもの——われわれはどこまで他者と関わろうと望んでよいのか、どうすれば「正当な」と呼ぶべき関わりとなるのか。とりわけ、愛や恋において、なにが正しいのかを決めるのは当事者だけであるとされ、また関わりの変遷や時の経過とともに評価が更新される(例えば、禁断の恋に人は幸福を見出し、家族愛や愛国心は戦争の歯車ともなりうるように、要は一筋縄ではいかない)。ゆえにこの「適切さ」の評価に関しては無視する。理想的な関わりも正当な関わりの定義は問わない(適切は適切、正しいは正しい)。

(ⅲ)傷つけていいのか、という問いの「いい」を決めるもの——これは『許可』の「いい」(⇔ダメ/禁止)であり、同時に『善悪』の「いい」(悪い/罪)を併せているのだろうが、どのような存在がここに許可を下し、善悪を裁くのかは不問としたい(さらにここには評価の視点がどこに在るのかのみならず、「なにを評価するのか」という対象と範囲——「いつの」関係なのか/だれとだれの関係なのか、どこまでを関係と見なすのか(≒①)——をも含むことが可能ではある)。強いて言うなら、「ぼくら」が決めるのだ(ぼくときみではなく、ぼくら)。

以上、様々にだんまりを決め込む宣言をしたが、これから続く記述は「ぼく自身の経験」と「経験から派生する想像力」に依拠しているため、ぼくのちっぽけで世間ずれ(本来的にも誤用的な語義においても)した感覚を信頼してもらう必要が少なからずあると、最後に一言述べさせてもらおう。

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