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滞在権訴訟 6/7

 僕は少し微笑みながらマキを見つめる。マキもこちらを見ている。けれどその表情は、話し出す一瞬手前で時が止まってしまったみたいにまじろぎもしない。微かに口は開かれたままで大きくて丸っこい目は瞼が覆い被さり、それはすぐに開かれまた瞼が被さる。時間が止まるはずがない。マキはこれから何かを言い出すだろう。僕には予想のつかないことを。シンジは穏やかな笑みでこちらを見ている。焦点はやはり僕のずっと後ろにある。やおらどこかから、椅子を引く音が上がる。耳を澄ませばナイフとフォークの触れ合う音が聞こえる。至るところに様々な音がある。スピーカーからは『フラメンコ・スケッチ』が流れている。間もなく曲は終わろうとしている。柔らかく軽やかで煌びやかなビル・エヴァンスのソロが過ぎ、マイルスのトランペットが響き渡る。哀しさと愛しさに身を震わせながら見えないなにかを優しく撫でるかのようだ。時間は止まらない。ぼくらの間を空っぽに流れてゆく。マキは溜息をつく。小さくなにかを言う。それは僕の耳には届かない。彼女はワイングラスを手に取る。残った白い液体を全て口に流し込む。かたん、と乾いた音が上がる。
「ちがうよ」。マキは僕をまっすぐ見ている。言葉の輪郭はとてもはっきりしている。「きっとちがうよ」
 僕は続く言葉を待つ。だがマキはまた押し黙る。僕もシーバス・リーガルの残りを飲み干す。薄まったウィスキーは微かな甘みが生じている。グラスには水滴が余りに滴っていて、手のひらを払うと水が顔に飛んでくる。氷はすっかり溶けている。だが沈黙は破られない。マキはなにが違うと言いたいのだろう。何もかもが違っているはずだ。ぼくらの生き方も、考え方も、手にする飲み物すらも。挙げればキリがない。時に言葉を交わし、時に沈黙し、そうして互いが決定的に異なると確かめているのだ、ぼくたちは。微笑み混じりの囁きがやはり至るところにある。新たにかけられたグールドの演奏と思しきブラームスの間奏曲が、沈黙するぼくらの胸を揺らしている。マキと僕は今、同じ音楽を聞いている。でもどうしようもなくわかり合えない。存在と存在の合間には致命的な溝がある。高い壁が聳えている。マキは僕に向かってなにかを否定した。けれど、これもただの確認に過ぎない。なにかを共有できたという誤解と、人はわかり合えるという欺瞞への無意味な告発に過ぎない。
「ダメなんだよ、N」とマキがやっと声をあげる。僕は白いテーブルクロスから目線を持ち上げるが、マキは顔を見せてくれない。俯いている。肩が微かに揺れてもいる。ふと、なにか光るものが膝へ滴り落ちる。マキは泣いているのだ。僕はそう考える。けれど彼女はすぐに顔を上げて、真っ直ぐ僕を向く。照明が僅かではっきりとは分からない。でも、目は赤くなっていない。涙の残り香は見当たらない。
「Nはまちがってる」とマキは淡々とした口調と固い顔つきで告げる。
 僕は掛ける言葉が見つからず、マキの周りに視線を巡らす。シンジは少し驚いたような表情をマキの方に向けている。何かを口にする気配はない。僕は逃走の結果として、シンジは義務として、マキが口を開くのを待っている。
「わたしたちは確かにどうしようもなく違う」とマキは言う。声は大きくない。だが、耳にずっしりと響く。「でもそれは、わかり合えないってことじゃない。なんだかNは、誰ともわかり合えないって無理に信じようとしてるみたい。ぜんぶが全部ニセモノだって決めかかってるみたい。そういうのって、少し悲しい。それにちょっぴり辛い。わたしはNみたいに強くないの。もしね、Nの言うとおり、わたしたちは絶対にわかり合えなくって、お互いがお互いのまま何も変わらないのなら、どうしてわたしたちは一緒にいるのかな。今、一緒に過ごしている時間は楽しい。でも、楽しいだけでなんにも意味はないのかな。わたしはね、今をかけがえのないものだと思いたいの。Nもきっと、あるいはそう思ってるはず。Nはなんでも分かってる。でも、そんなの当たり前さ、下らない、ってうんざりしちゃうんだよね。気持ちはわからなくない。分からなくないんだけど、でも、ならどうして、Nはわたしたちと一緒にいるの? なんのためにここにいるの? ただ、自分にとって面白いから、って言うんだったら、じゃあどうしてそんなに悲しいことを言えてしまうの? 全部に意味がないなんて、そんなこと言わないでほしい。なんだか馬鹿馬鹿しくなっちゃうの。わたしたちが過ごす時間になんにも価値がないんだったら、こうして一緒にいるのも、Nにはあるいは暇つぶしでしかない。それはわたしにはどうしようもないことなんだけれど、確かに事実かもしれないんだけど、でもわたしはそうであって欲しくない」
「いや」と僕は口にするが、畳みかけられた言葉のどこから取り繕うべきなのかわからない。反論しようにも、僕とマキは望むものが違いすぎているのだ。いや、これは反論じゃない。論理なんてマキにはなにも響かない。今、僕に必要なのは弁明だ。いや、詰まるところ、ぶちまけてしまえば単なる姑息な言い訳だ。だってマキの言ったことは、何一つとして間違ってない。僕は事実、目の前を流れてゆく全てを、これまで経験した一切を、結局のところ意味がないものだと見なしている。もちろんあるいは付きだが、ということはつまりあるいは真実なのだ。とりつく島などない。僕がなにを口にしようと、その言葉は藁に過ぎず、しまいは溺れてしまうだろう。けれど、マキは今、とても落ち着いた表情をしている。風のない夜の海のように、大らかで深みのある表情を。シンジのものに似たたおやかでうっすらとした笑みすらも浮かべている。そしてその胸の内には強い憤りがある。まるで、抑制された物腰に洗練された微笑み、そして周囲に散在するグローバルな正しさが一緒くたに混ざり合っては僕という存在を糾弾しているかのようだ。お前はなぜここにいるのか、お前は本当に生きるに値するのか、と。僕はなにかを口にして、許しを乞わなくてはならない、ここで生き続けるためには。ソクラテスがその命をもって説いたように、可能であるとしても、逃走など決してしてはならないのだ。僕は今、なにかを口にしなくてはならない。
「ただ僕は」と僕は言う。声が少し嗄れている。緊張している。どんなことを口にすることになるのか、やはり自分でも分かっていない。「僕は君たちと過ごす時間が好きだよ。好きだからこそここにいるんだ。意味はなにもかも抜きにして、僕は目の前の今を愛している。仮にもう一度過去に戻ることができたとして、僕はきっと同じ経路を辿るよ」
「ちがう」とマキは柔らかい口調で、矢継ぎ早に僕の言葉を遮る。「わたしが言ってるのはそういうことじゃない。好き嫌いっていう話じゃないよ。どれだけ自分と、自分の身の回りのことを大事にできるか。わたしがNに伝えたいのはそういうことなの」
「君は幸福論を説いている?」と僕は反射的に論駁している。「けれど幸福は人の数だけある、マキ。君が言っているのは、どこかラッセルのものに似ていて、少し現代的に過ぎやしないか」
「読んだことない」とマキは淡々と述べる。
「どれだけ人を喜ばせるか」と僕も淡々と言葉を並べる。「ひいては自身の仕事——これは外界に対して個が為す行為全てを意味するんだが、そこに意義を見出すことを謳っている。ひどく二十一世紀的さ。世界に幸福を見出し、世界に幸福を振りまきなさい、と言ったところかな」。僕は一気呵成に喋る。だんだんと口調が荒くなっている。まるで弁明にはなっていない。僕はひどく焦っている。ひどく混乱している。
「そうなんだ」とマキは冷たく言い放つべき台詞を、普段の少し甘えた調子で口にする。マキは感情を完全に律している。「じゃあ、Nは幸福をどんな風に考えているの?」
「考えていない」と僕は強気に言って返す。が、話をどこへ運ぼうというのか、見立てはまるでない。「いつからかな、僕は幸福が人生の第一義であるという考えに疑念を抱いている。まだ、結論は出ていない。けれど、そもそも、幸福を追い求めるべき、という考え自体が誤りかもしれない」
「つまりNは」とマキは猫なで声を出している。「何事も無意味だ、って言いたいの?」
「そうじゃない」と僕は慌てて取り繕う。「確かに何事も無意味と考えることもできる。けれどだからこそ、あるいは意味のないことなんてない」
「ねえ、その『あるいは』っていうの止めて」
 マキの声は大きく、そして恐ろしく低く、微かに表出した怒りで僕は怯んでしまう。口を微かに開けたまま静止している僕を、シンジがじっと見ている。
「ごめん」とマキは慌てた様子で謝る。「わたし、飲み過ぎちゃったのかもしれない」
 マキの目はどこかの光を反射して輝きながら、こちらを向いている。けれど目線は僕の胸辺りに沈み込んでいる。
 僕は、マキがこれまでにシンジと二人で何本ボトルを空けたのかを考える。三本? 四本か? ひょっとして五本? いずれにせよ飲み過ぎている。けれどこんなことを考えてもどこにも行けない。酔いに任せたとはいえ、マキは誤解から僕を糾弾したのではない。彼女は間違っていない。僕は局地的な正しさを有しているのかもしれない。けれど結局のところ、多くのまともな人たちにとっては受け容れがたい価値観を抱えていて、つまりは僕という存在は誤りに充ちている。
「僕こそすまなかった」と僕は呟く。「馬鹿にしてるように聞こえたかもしれない。けど、全くそうじゃないんだ。僕はこういう風にしか喋れないんだ。そしてこんな風にしか考えられないんだ。本当にすまない」
 言いながら自分が嘘を塗り固めているに過ぎないとわかってしまう。けれどどうしようもない。言い訳とは、つまり詭弁であり屁理屈であり、常に偽証罪へと落っこちる可能性のある細い細い綱を渡る曲芸なのだから。僕は生まれつき救いようのないほどに不器用で、なににつけバランス感覚は決定的に欠けている。そして最大の欠陥は、自分を含むあらゆる全てを、心の底から無価値と見下していることだ。
「すまない」と僕はもう一度繰り返す。けれど謝罪とはなにかを僕は知らない。人は本当に悔い改めることなんてできないと思っている。だからこの全てはまやかしだ。けれど僕は言い訳を、謝罪を吐き出す。どうして? なんのために? わけがわからない。なにも意味なんてない。
「幸福が第一義でないかもしれない」とシンジが口を開く。やはりそこには軽やかな微笑みがあり、僕の高ぶって疲れ果てた神経をなだめてくれる。「っていう切り口は面白いですね。確かに近代も現代も、幸福という概念に囚われているとも見えます」
 僕は相づちを打つ。シンジはやはり有徳の士だ。こんな状況でもしっかりと僕を導いてくれる。
「僕はね」と僕はゆっくり口を開く。「けれど愛を信じているんだ。幸福を疑いはしても、愛だけは信じる」
「わお」とシンジは歓声を上げる。彼も酔いが回っているのかもしれない。「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。愛こそ全て。さすがNさんですね」
「どういたしまして」と僕はシンジの笑みを真似て笑って返す。僕の微笑みはきっと、二人にはニヒルに、すこし嘲るみたいに見えているのだろう。いつだって僕は人の神経を逆なでする。そして、言い訳など無意味だと決めかかって、人は絶対的にわかり合えないものだと信じ込んで、生じた齟齬を放置する。捨てられた猫に気づかないふりをして通り過ぎる人たちみたいに。電車内に闖入してきた狂人に冷たい一瞥を投げかけるほかは見て見ぬ振りをする冷酷な善人たちみたいに。言葉はなにも伝えられない。世界はどうしたって変わらない。だとして、目の前の現実と袂を分かって、現実を都合良くねじ曲げてしまうのは、仕方のないこととはいえ、果たして正しいのだろうか。僕は答えを知っている。かつて何度も導き出した結論だ。でもまだ、僕は間違えてしまう。どこにいても、なにをしても、僕は僕の弱さから逃れられない。僕は僕から逃れたい。きっと本当は、僕はこの世界のことがこれっぽっちも好きじゃないのだ。全てに退屈しきっているのだ。でも、口ではあべこべに語る。それは生きるための防衛本能だ。自分の生に微かでも価値があると推定するなら、世界は等しく意味を持つ。ゆえに、僕がこの世界を愛しているのは自らを愛しているがゆえだ。けれど僕は僕を憎んでもいる。自分と自分を取り巻く世界を全否定してもいる。マキが怒りを抱くのもやはりもっともなのだ。僕の全ては嘘だ。僕は世界を愛してなどいないし、これ以上生きていたくもない。そして多分、かけらも愛を信じていない。言葉は心とどこまでも分離している。ドーナツと空洞のように。口を開くほどに嘘が延々と並んでゆく。虚偽の金太郎飴。自己欺瞞の合わせ鏡。全てを剥ぎ取ったところに残るのはなんだろう? きっと、僕の抱いている喪失感はなにかを失った哀しみじゃない。ドーナツ的実存。空洞に描かれた仮象に過ぎない僕という人格は、そもそもが失われている。失うことのできるものなど、もともと手にしていない。
「ねえ、N」と唐突にマキが僕に訊ねる。微笑みがバニラアイスのミントの葉のように上品に添えられている。「どうしてNはドイツに来たの?」
 どうして僕がドイツに来たのかって? 理由なんてあるはずがない。口笛はどうして遠くまで聞こえるのか。あの雲はなぜ僕を待っているのか。どうして僕はドイツにいるのか。誰がどんな答えをくれたとしても、全ては僕を通り抜けてゆく。理由なんてない。僕がここにいる意味がないように。
『いつかドイツに行こう』
 頭の中で言葉がこだまする。ユズの声だ。そうだ、僕はユズと昔約束をした。どうして? ブラームスが関係があるような気がする。いや、これはグールドの素晴らしい演奏に触発された仮説だ。なぜだ、なぜ僕はユズと約束をしたのだ。思い出せない。ともかく僕はその約束を未だに覚えている。そしてその約束が果たされることは永遠にない。
『君はいつか、ドイツへと旅立つ』
『あなたはドイツみたいに両極端ね』
 僕のもとに現れた人々が僕をドイツに誘った。そういう可能性もなくはない。でも結局のところ、ドイツに来ることを選んだのは僕自身であり、彼らの言葉は本当の理由ではない。やはり口にすることのできる理由なんてない。けれど厳然たる事実として、僕はここにいる。空っぽな心であったとしても、なにかを思い、なにかを感じて、僕はドイツに行くことを決めた。なぜだ。僕には中心がないから、やっぱりわからない。いや、でも見えなくとも、輪郭はやはりある。輪郭のあるところには必ず中心が見いだせる。つまり必ず答えはある。僕はきっと知っている。ただ言葉にしたくなかっただけだ。空洞もまたドーナツなのだ。
「僕がドイツに来たのは」と僕はゆっくり口を開き、自分の言葉の余韻を味わうみたいに、少しの間黙り込む。そして彷徨っている視線を正面に集める。マキは僕を見つめている。今では僕もマキを見つめている。
「君に会うためだ、マキ」
 マキははっと息を呑み、そして俯く。ぼくらはまた沈黙する。
 口にしてしまった言葉は耳の奥で長く尾を引いている。何度も重々しく鼓膜を揺らしている。君に会うためだ、マキ。君に会うためにドイツに来た。僕はマキに会うためにドイツに来た。そしてマキにひどい仕打ちをした。そう、疑いなく僕はマキに会うためにドイツに来た。でもそれは、僕が今ここにいる理由とはならない。多分、マキもそれに気づいている。でもそれ以上彼女はなにも訊いてはこない。そして僕ももうそれ以上、なにも口にしたくない。
 僕はウェイターを呼び、二杯目のシーバス・リーガルを求める。シンジはまたワインボトルを注文する。それからは誰も声を上げない。時間がじっとり流れてゆく。ウェイターが酒を持ってやって来る。僕はウィスキーをちびちびと口に運んでゆく。マキはもうずっと窓の外を見ている。シンジはテーブルを挟んで、ビル・エヴァンズの演奏を思わせる、細部にまで意識を張り巡らせた繊細さと流麗で洗練された身のこなしで、時に静かにゆっくりとグラスを傾け、腕組みをしては頬杖をつき、時たま何気なくもひどくスマートに髪を掻き分ける。間違いなく、その胸の内には深遠な見解が秘められているのだろう。けれど、同様の理を弁えた審判に基づいて、ワインと一緒に流し込むことに決めたのだ。僕の頭は行き場のない怒りとやるせなさで一杯になろうとしている。いつからか安物の酒に付き物のむかむかする酸味が口内に広がっていて、口にしているのはとても高価なウィスキーなのにと独り言を言う。やり場のなさから逃れようと、僕は視線を窓の外へ向かわせる。闇が深まっている。やっと今になって、塔が回転しているとわかる。以前は左手にあったベルリン大聖堂が視界の右隅に消えかけているのだ。ぼんやり眺めていると、しばらくして光が消える。美しい玉虫色のドームは闇に紛れてゆく。次第、街の至る所で急速に光が失われ、それは、ぼくらもここを去る頃合いだと告げている。

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