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長靴の中の私

仕事で長靴を履く。
んでその長靴が小さいのか、はたまた私の右足がデカいのか、
爪が変形していることに、ずいぶん前に気が付いた。

変形していた爪は手で言うところの”人差し指”である。
私の足の人差し指はなぜか長い。親指よりも長いので、
靴選びの際、少々面倒である。

ずいぶん前、長靴を履いていて痛みで気が付いた。
”爪が変形している”
”爪が何かこう、丸く・・・玉?波打つボールのような・・・え?爪ってこんなんになる?”
しかし、履いている長靴はどこで買ったか覚えていないが、
とにかく軽いので、そのままずっと使っていた。

痛みは日に日に増し、さすがに我慢することにも限界だったので、
長靴を変えた。(と言いながら、捨てられずたまに使う。軽いんだもん)

普段私は家の中は裸足で生活している。
んで最近、何となく指を見てみた。

『ん?・・・あ!少しキレイになっとる。』

変形していた爪が多少だがまっすぐに伸びている。
そういえば、痛みも最近無いな。って、
普通ならば、感激などしない事なのだが、

なぜかその瞬間、今の私を見たような気がした。

”がんばっては・・・いたんだ”

私はあまり足の爪を意識したことがない。爪の変形に気が付いたのも
”痛み”からであり、それがなければ気にもしない。

見えないところで、何とか再生しようと試みる。

美談と言うにはあまりにも大げさであり、滑稽に思える瞬間が
たまに生活の中で起こることがある。
精神的にも肉体的にも、時には逃げ出したくても逃げ出せない時なんて
あまりにも多い。

心が軽くなる本を読んで、心が軽くなったことは、記憶にない。
大丈夫?は本人には何の意味も持たない。

しかし、

”私の指は・・・がんばっていた”

指は頑張っている。私は・・・・?

もしも、もしも自分を追い込んでしまう時、
誰の言葉も届かないくらい心を閉ざしたい時、

爪は、髪は、髭は、
体は確実に”自分の為”に生きている。
血は肉は骨は、誰かによって”生かされている”

今、”ここにいる”それ自体が、
”生きている”ことであり、
”生かされている”こと。

”余裕でしょ。こんなん(困難)、余裕でしょ。”
追い込まれた時、私の口癖である。
ピンチはピンチでしかない。
だがピンチをチャンスに変えることはできなくても、
答えは選べる。答えは自分だけのものである。

飛躍どころか、宇宙にまでぶっ飛んでいきそうな話の展開に
締め方がわからなくなったので、この辺で良しとする。

”まだいけそうか?”
私はこの言葉が好きである。






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