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唯一無二のマティーニ

マティーニをオーダーするハードルは年々高まっているけれど、その夜は最後にマティーニを味わうと決めていた。

「蒼月」人通りの少ない路地裏を歩いていると、どこかで聞いたことのある名の看板を見かけた。

古い記憶を呼び覚ますとあるバーテンダーの言葉に行き着いた。

数年前、私が色んなバーのマティーニを味わっている頃、ある信頼するバーテンダーが私に教えてくれたのだ。
「マティーニが好きであれば、蒼月のマティーニを味わってはいかがでしょう。唯一無二のマティーニですから」
そう言うとバーテンダーは「蒼月」と書いたメモを渡してくた。

マティーニが美味しければ誰かしらの話題に上がるはずだし、都内のバーはそれなりに知っていると自負していたが、聞いたことのないバーだった。
そしてバーテンダーも「蒼月」を勧めたのは、私がはじめてのようだった。

その頃の私はわずかな味わいの差であっても、より美味しいマティーニに出会うことに金も労力も惜しまなかった。
より美味しいマティーニを味わうことで、自身の世界が深まると信じていたし、それが私を外側から成熟させてくれると疑わなかった。それは私自身の希求やら劣等感に関わるかもしれないが、今は触れないでおこう。

とにかくその頃の私は誰彼であれ、勧められたバーには必ず訪れていたが、なぜか信頼しているバーテンダーに勧められたにも関わらず、私の心と足は「蒼月」に赴くことはなかったのだ。
私が「蒼月」と書かれたメモをポケットにしまうと、その記憶は日常に紛れて次第に薄れていった。炎が蝋を溶かしながら少しずつその身を消していくように。

その夜は予め行こうとしていたバーが閉まっていて、さてどうしようと歩いていたら小さく目立たない看板が私の視界を射止めたのだ。

「蒼月」数年振りの記憶は、私に迷わずその扉を開かせた。

この夜の行く末に期待を抱えて中に入ると、暗がりから和服姿の女が現れた。

彼女はバーテンダーなのか。他にバーテンダーがいるのか。本物のマティーニを味わえるのか。色んな思いが過ったが、扉を開けてしまったからにはその空間に委ねるしかない、と自らに言い聞かせた。

カウンターに座り、ジン・トニックをオーダーすると彼女がメイキングをはじめた。

ジン・トニックを一口味わうと、私は「蒼月」を勧めてくれたバーテンダーの名を伝えたが、彼女は分からない様子だった。

「その方は前のオーナーの知り合いかもしれないですね」

「そのバーテンダーにはマティーニを勧められました。唯一無二だと」

「それはやはり前のオーナーのマティーニですね。私も一度だけ味わいましたが、唯一無二のマティーニでした」

わずかな沈黙が空間を支配した。彼女の言葉に続きがあると察した私はそれを待った。

「しかし彼は20○○年○月○日に他界しました」

それは3年前で丁度今日が命日だったが、彼女は表情を変えることなく、ただ目の前のグラスを磨いていた。

鼓動が高まった私は、黙ってジン・トニックを飲み干した。それはその夜に味わうには、いささか爽やかすぎるジン・トニックだった。

聞けば彼女がそのオーナーから「蒼月」を引き継いだという。
カウンターの向かい、私の斜め後ろにはタンカレーのボトルとグラスが飾られてライトアップされていた。マティーニを愛した前のオーナーの思いを残しているようだった。

数年前にバーテンダーに勧めれらた時に「蒼月」に来ていれば、という思いを飲み込みマティーニを味わうことを決意した。「感傷に味覚を左右されてはならない」という言葉が後を追う。

バーテンダーは、予めオーダーを把握していたかのようにタンカレーとノイリープラットを手にして、和服の袖をまくりバースプーンを回転させた。静けさの中、液体が氷に触れながら混ざり合っていく。

やがて長すぎないステアの末にマティーニが完成した。

ジンとベルモットの間を冷たさが支配したマティーニだった。

マティーニにおいては特に一口目の味わいが最も精度が高い。以降の味わいは、私の意識を緊張から緩和へと導いた。オリーブなき後の味わいは、着飾った女がその服を脱いだ後のように露わだった。

私はあくまで目の前のバーテンダーのマティーニを味わっているのだと言い聞かせた。それが前のオーナーのレシピかは尋ねなかったし、彼女もその味わいの感想を求めなかった。唯一無二かどうかは分からない。ただ言葉にせずともバーテンダーと私の間には、「蒼月」を訪れたときよりも共通の思いが宿っていた。それはカクテルを味わうことの奥深さのひとつなのかもしれない。

気づけばカウンターの端では、男がウイスキーをオンザ・ロックで味わっていた。

氷がウイスキーに溶ける音が聞こえる程、静けさが空間を支配して、その静けさは男の存在を際立たせた。

男と目が合うと私は目を反らしたが、男は私に視線を留めていた。あるいは男は私の前のマティーニのグラスを見ていたのかもしれない。

男のグラスが空になると、バーテンダーは黙ってタンカレーとノイリープラットを手にした。

マティーニがはじまる予感と共に「そこに居合わせてはいけない」という直感が響き、私はカウンターを後にした。

背中に男の視線を感じたまま、私は「蒼月」を勧めれてくれたバーテンダーのいるバーへと向かった。




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