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華麗な虚偽と薄汚い真実、どちらを愛するか

「華麗な虚偽と薄汚い真実、どちらを愛するか」
最後のページにそう書かれた本を3冊買い、3冊ともに行方が分からないまま今に至る。

1冊目は限りなく恋人に近かった人に貸したままで、2冊目はひどく酔った末に青山通りから道路に向かって投げ捨てて、3冊目は記憶にない。

上手く探せば本棚の奥底から見つかるかもしれないし、見つからなくともその記憶に触れられるかもしれない。

その本を貸した彼女は「薄汚い真実の方がまし」と言いながら、バーボンウイスキーをストレートで流し込んだ。

彼女は嘘で自分を守ろうとはしなかったし、酒を何かで割ることもなかったし、借りた本も返さなかった。

スコッチウイスキーを水割りで味わい、不要なことは口にせず、借りた本をしおり付きで返す僕とは真逆だった。

律儀であることよりも潔良くあることを体現していた彼女は、僕との関係だけを曖昧にしていた。

彼女と最後に会ったバーは骨董通りの路地裏にあるカウンターだけの小さなバーだった。
そこで彼女はマティーニをオーダーした。後にも先にも彼女がマティーニをオーダーしたのははじめてだった。少なくとも僕と飲むときには、彼女はウイスキーのストレートしか飲まなかった。

マティーニ程に飲み手側の情緒に左右されるカクテルはない。バーテンダーがどのような意図で作ろうとも、飲み手側が独自にそのときの思いで味わいを決めるのがマティーニだ。端的にいえば美味いかどうかは飲み手の思いが決める。そういうことだ。

世界はいつからか嘘に対して非寛容になり、真実の価値が高まり、向き合うという言葉があちこちから聞こえてくるようになった。ある者にとっては生きにくく、ある者にとっては生きやすくなったのかもしれない。いずれにしてもマティーニを味わう者には何かしらの情緒が伴っているはずだ。

マティーニをじっくりと味わっていた彼女は、何かを迷っていたのか、何かを決断したのか今になっても分からないままだ。

「美味くはない」情緒に惑わされることなく彼女はそう言ってカウンターを後にした。

僕はひとりカウンターに残り、彼女の残したマティーニを味わった。どこまでも酔いたかった僕は、その後続けて3杯のマティー二を味わった。華麗に騙されたい、いや真実から目を背けたい僕にとっては丁度良い味わいだった。

過去が美化された頃合いに4冊目を買うか本棚の奥底を探すか、あるいは1冊目を探し求めるかを決め兼ねて僕は一先ずオリーブを口にした。

そして彼女が去ってから1年が経った頃に、ポストに僕が失くした本が届いていた。
それが何冊目の本なのか分からないまま、ページをめくると最後のページに手書きで書かれていた。

「そろそろ真実と向き合う覚悟はできたかしら」

僕はその本をポケットに入れて骨董通りの路地裏のバーへと向かった。

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