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愛さえ凌駕する女

今までに何人もの女と出会い、それなりに心惹かれることはあったが、由貴ほどに僕の心を奥底から揺さぶった女はいない。

由貴と知り合ってからの7年間、彼女は常に僕の心のどこかしらに潜んでいた。それは恋の真ん中だったり、信頼する異性の位置だったり、ときには由貴を忘れようと心の片隅に寄せていたこともあったけれど、彼女が僕の心から離れたことはなかった。

その7年の間に僕は2人の恋人と付き合い、共に真剣に向きっていたが、その間にも由貴は僕の心のある部分を占めていた。それは僕の心のとても小さな領域だけど、包み隠さずにいえば男として生きていく上で重要な部分を占めていた。

「グレンリベットのソーダ割りを」

1年振りに会った由貴は、バーカウンターでウイスキー・ソーダを飲んでいた。出会ったときの由貴はウイスキーを味わう女ではなかったが、その夜も変わらず彼女の身体は黒いワンピースに包まれていた。僕と会うときの由貴は何かを隠すように、あるいは何かから隠れるようにいつも黒い服にその身を包んでいた。

「オールドパーの水割りを」

僕がオーダーするとバーテンダーは長いステアの末に水割りを差し出した。そしてグレンリベットとオールドパーのボトルを由貴と僕の前に並べると、速やかに僕らの視界から退いた。
そこには言葉で主張しなくとも存在感を示し、状況に応じて去り際を見極めるバーテンダーの気配が残っていた。
何事においても良質さを見極める由貴の目は、バーを選ぶにも間違いはなかった。

「最近、わたしもバーでウイスキーを飲むようになったの。だいたいはソーダで割ってるけどね」

「お互いに年相応の飲み方をするようになったのかな」

「あなたは出会った頃からウイスキーは水割りね。それ以外の飲み方を見たことがないけど」

「確かにウイスキーは水割りで味わうことが多いけど、年に何度かはロックで味わいたくなる夜がある」

「そんな夜には何を味わうの」

「クライヌリッシュと決めている。スコッチのシングルモルト」

「あなたがクライヌリッシュをロックで味わいたくなるのはどんな夜」

「とても嬉しいことがあったときか、とても哀しいことがあったときかな」

「それならわたしにとっては今日こそがロックで味わいたい夜かもしれない」

バックバーに並べられたウイスキーを探っていた由貴の視線が僕に向いた。
目を反らすと由貴は残りのグレンリベットを一気に飲み干した。

「クライヌリッシュをロックで」

バーテンダーにオーダーすると由貴は、より鋭い視線で僕を捉えた。

「あなたは何をオーダーするの」

その夜の行く末を思いながら僕も同じくクライヌリッシュのロックをオーダーした。

バーテンダーは予め用意した丸氷をグラスに滑らせた。クライヌリッシュが氷の淵を流れるとグラスの底が琥珀色に満たされた。

唇がグラスに触れ、クライヌリッシュが味覚を経て喉元を通過すると、由貴は目を閉じてクライヌリッシュの余韻を確かめた。

「確かにとても嬉しいことがあったときか、とても哀しいことがあったときに味わうのが相応しいウイスキーね」

そう言うと由貴は束ねていた髪を解いて、無造作にその髪を下ろした。由貴の黒い髪は束の間、左右に揺れながらその白い首を隠し、やがて留まった。

今夜が由貴にとって哀しい夜なのか嬉しい夜なのか分からないままに口にしたクライヌリッシュは、僕には豊かで複雑な味わいを与えてはくれなかった。端的にいえば由貴を前にはクライヌリッシュさえもその鋭利が緩んでいたのだ。

「最近はどんな文章を書いているの」

「相変わらず酒と男と女の話だよ」

「変わらないのね。それにしてもあなたの文章に書かれている女性はみんな素敵な人ばかりだわ」

由貴には敵わない、と言いかけて僕はクライヌリッシュを口にした。

「ねぇ、わたしのことは書いてくれないの」

「由貴を書くことは何より難しいな。何度か書いてみようとは思ったけど」

僕が由貴を見ると彼女はゆっくりと表情を微笑みに切り替えた。その微笑みの奥に隠された思いが読み取れずに僕は由貴から目を反らした。

クライヌリッシュが由貴の喉元を刺激すると軽やかな言葉を導き出した。
「わたしのことを書いてみてよ。それでわたしを満足させてくれたらあなたの望みをひとつだけ叶えてあげる」

由貴と会うとその魅力に取り憑かれてしまい、数日間は僕の日常が色褪せる。次はいつその魅力に触れることができるのだろうと待ち焦がれながら、ゆっくりと少しずつ日常が色合いを取り戻していく。由貴の魔力は僕を内側からじっくりと際どく揺さぶりをかける。僕は7年に渡りその魔力に惹きつけられながらも彼女と絶妙な距離を保ってきたのだ。

「そろそろギムレットを味わう頃合いかしら」

由貴はわずかに僕に身体を寄せて言った。

「早すぎはしない。まさにギムレットを味わうに相応しい夜だ」

「あなたにとってはマティーニを味わうのに相応しい夜だね」

彼女の何が僕を惹きつけるだろうか。

由貴の表情には哀しみが滲んでいて、笑っていてもその瞳から悲哀な色が消えることはなかった。

由貴が今までに味わってきたであろう深い哀しみは、その容姿や仕種や表情や視線に表れていた。

彼女は歳を重ねる流れの中で、哀しみと折り合いをつけながら陰に際立った美しさを魅せていたのだ。

それは視覚的、あるいは性的に訴えてくる色気とは異なり、由貴の憂いな表情は抗いようもなく僕の心の奥底を突いてくる。端的にいえば僕は、由貴の哀しみを帯びた美しさに心を掴まれていたのだ。

その哀しみの先には美しさがあったし、美しさを辿れば哀しみたどり着いた。それぞれが彼女の中で相互に補完し合い、絶妙なバランスを保っていた。
たとえば真暗なコーヒーの中に純白なミルクが入り交じるように、由貴の表情は中立的な色合いを保ち僕を魅了した。

そして由貴はときにその哀しみを的確に示したが、僕に甘える寸前で自らを自制した。僕らはただお互いの心の奥底に抱える誰も触れることのできない揺らぎを言葉にして、ときに酒を飲みながら語り合っていただけだった。

あとわずかに関係が先に進めば、僕は由貴の深く複雑な哀しみを和らげることができただろう。その術を持ちながらも叶わぬもどかしさを僕は7年間抱え続けている。

バーテンダーはシェイカーを振り終えギムレットを整えると、由貴の前のショートグラスに素早く注いだ。
対してギムレットとは反するように僕の前のショートグラスには、ゆっくりとマティーニが注がれた。

ギムレットとマティーニが僕らの前に並ぶと由貴はグラスを持たずに唇を付けた。目を閉じて味わいを確かめる由貴の横で僕はマティーニを味わった。

「この先数年は忘れられない味わいになりそうだわ」

「もう2度と味わうことのできない味わいになるかもしれない」

ギムレットとマティーニはその夜の行く末を示唆していた。

7年間で1度だけ由貴に触れた夜がある。

当然のことながら、という前置きが適切かは分からないけれど、僕は由貴を抱きたいと思っていたが、当時の僕は女性の気持ちから表現される言動に対する想像力が欠けていた。

だから2度と訪れることのないその夜に僕は由貴を抱かなかった。

今の僕にそのような機微を図る想像力があるかは分からないけれど、もう1度あの夜が訪れるなら僕は由貴を抱くだろう。

どうしても欲しいと焦がれていたものが目の前に現れて、もう2度訪れないと自覚した時に、人はそれに抗うことができるだろうか。
僕は抗えるほどに強くはないし、自分が人並みにずるくて弱い人間であることを自覚している。

とにかく僕は今なお由貴に揺さぶられ続けている。

「今度はあなたが好きなマティーニを飲んでみたいわ」

「マティーニを飲んだらもう引き返せなくなる」

「どういうこと」

由貴が下ろした髪をかき上げると白い素肌が黒いワンピースの隙間から露わになり、その妖艶さは僕を困惑させた。

「結論から言うと僕は由貴の美しさにどうしようもなく揺さぶられている。それは愛さえも敵わない」

「わたし、男の人からいろんな口説かれ方をしてきたけれど、そんな口説き方をするのはあなたがはじめてだわ」

由貴は僕に視線を向けずに言った。ギムレットはグラスにまだ一口分残っている。

「あなたはわたしとは幸せになれないわ」

「幸せよりも手にしたい気持ちを抱えている」

由貴の唇が最後のギムレットに触れると、僕の目の奥を覗いて言った。

「あなたに覚悟があるなら考えてもいいわ」

そう言いながら由貴は前触れなく僕のグラスを奪った。マティーニで濡れた由貴の唇は僕の理性をアルコールと共に溶かしていった。

マティーニを味わった由貴の表情からは、哀しみが消えて艶やかな隙が顕になった。

その美しさは愛さえも凌駕して僕の心を激しく揺さぶり続けた。

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