鳥渡小休止

はや月末を迎え、本年も残すところあと11ヶ月となろうかとしている今日この頃でございますが、遅蒔き乍ら今年最初の記事を書く事に致します。
今月の末日迄に何かしら記事を書けば聯續月数が35ヶ月になるのだとか云う通知が來ましたので、折角だからと投稿してみるのであります。

實は年明け早々に身内に不幸があり、それから暫くは少々氣が晴れなかったものでありましてnoteも一旦休止しようかと思っておりました。
しかし隔日ではありますが皆様の記事を拝讀するにつけ、段々と元氣も出てきて氣持ちも前向きになって參りました。

來月から徐々にまた色々とやっていこうかと思っておりますが、幸福を求めて活動するのが人生でありますればまた悲しみも常に伴うものだと改めて思った次第であります。

「樂しい事が終わるのは悲しい事や辛い事が終わる為にある」と云う或る漫画の心に残る言葉がありますが、今の自分にピッタリの文言ではなかろうかと存じます。
ここに至り、人が幸せを思う事はそれと同時に色々な場面で別れが必然的に訪れる事でもあると思っているのであります。幸せな人生に悲しみは附きもの。そう云うものは幾らでもあるのです。

幸せはそれを取り巻く中で色々に繋がりが生まれ、その中で掛け替えの無いものが出てくる事があります。それを普遍的な言葉で「愛」と表現致します。
自分に失いたくないものが出來れば、いつかはそれと別れなければならない時もまた來るのです。
その時に幾ら悲しく辛くても、その分だけ確かに幸せがあったものだと思う事に致します。
そうでもしなければお別れをするものに對して余りにも申し訳が立たないからなのです。
また、別れと言ってもそれは一時的なものだとも思っております。
この歳にして死を考える時、そう思う事に致しているのです。

だから一時的に落ち込む事があっても決して打ちひしがれたりはしない。今は駄目でも時間が經てば治るのです。

物理の世界では時の流れとは一方向のみに働く「ベクトル」で、その正軆は萬物に作用する破壊の力だと言われております。時間とは不可逆的な破壊の力なのです。
従ってその流れの中で生きている我々は必ずその作用を受けるものだと云うのです。
だから大切なものとの別れは誰にもどうする事も出來ないものであり、人生はその聯續と言っても過言ではないのです。そう云う風に出來ている様なのです。
しかし、それと同時に破壊の力である「時」が特定の場合に於いては再生や恢復の作用を生む事もあるのだと。
中學3年の卆業を控えた時に當時の理科の先生から最後の授業でそう教わりました。

人や物でも何でも自分にとって大切なものは、誰にだってあるものだと思います。
その掛け替えの無い物を如何に多く持つかが或いは幸せなのかもしれません。
人の心の躍動と安寧とはそう云うものからもたらされる事が多いからだと思います。

もし自分には一切そう云うものが無いと断固言い張るのであれば、それは見落としていたり忘れていたり氣附いていないだけかもしれません。
本當に何も無いのであれば今すぐに何でも良いのでそう云うものを見附けられる様に取り組む事を強くお勧め致します。
この繋がりが「愛」と呼べるものであるならば、愛が無い。これ以上の不幸は無いと昔から言われているのです。

イマドキは世の中も荒廃しておりますれば、自分一人だけの理屈で物事の眞理も正義も何もかも勝手に決めつけようとする人が大勢います。そしてそれは目障りなどころか惡い意味で目立つのです。
「人にはそれぞれ安心出來る場所が必要ですが、幾ら自分だけの世界に閉じ籠ろうとしても社會生活を營んでいる以上、それは無理と云うものですよね」…と、かの有名な「せぇるすまん」が言っておられましたが、そう云う事を理解しないと色々なところで善惡の判断が出來ず、自分から修羅の世界に進んで堕ちる様なものだと思います。
そこに自分以外の何物も無い世界に住んでいると、氣附かぬ内に冷たい心の内に發狂し、かの映画『八甲田山』の様に矛盾脱衣をするものであります。

何か氣に入らない事があるとすぐに「死ね」「殺すぞ」と言う人は澤山います。
いい歳をした大人でも、例えば保育所に入る事が出來ないと我々の大事な日本と云う國に對して死を要求する様な時代です。日本が死んでしまうと私は大いに困ります。
語彙力が足りなく、これでしか自身の氣持ちを表現出來ないのであれば今からでも遅くないので國語の勉強をする事を強くお勧め致します。

私も例外ではなくこう云った言葉を数え切れぬだけ受けて參りました。
しかし氣の毒な事に私も、そしてそれを發言した當人でさえ「私自身の死」を實行する事が出來ないのです。もし實行したら大変な事になるのでやめましょう。よく考えれば子供でも解る事です。
出來もしない事を平氣で口にする者は滑稽なのです。
生命についてもう少し勉強しましょう。

命も物軆の存在についても、それから幸せを享受するからして大切なのであり、その逆もまた然りなのだと思っております。大切なものであればこそ即ち幸せと言うところであります。

ずっと昔、公園で大事にしていたボールが無くなってしまい、泣きながら日が暮れる迄茂みの中を探した事も、古くから愛用していたお氣に入りの器物を壊してしまった時、飼っていた小鳥が或る朝に死んでしまっていた時、そして大事な人の出棺の時、いつも思う事は一緒です。

容易に死や破壊を求める者が多くなった今日、私はそう云う時代の流れにいさゝか合致していないのかもしれません。
今一度、自分にとって大事な人、大切なものの事をよく考えて日常生活を憚りを持ち乍ら少しずつ愉しんでいけたらと思っております。
事後報告になりましたが、その為に當月は少々休む事に致しておりました。


<記事本文2,345文字>

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