好きを摂取し続け、恥をかかなくなった。


◯◯なところ好き。

みたいなコメントを

You Tubeなんかでは

よく見かけますよね。


お見送り芸人しんいちも

そこを突いているんでしょう。

SNS全般そうなのかな?


あそこは好きなものを観て

好きなものに浸る場だから

そうなるのも無理はない。


批判されないことを前提で

当たり障りなく書いている

のかもしれないけれどね。


でもホントに好きなものばかりに

囲まれすぎて逆に大丈夫なんかい?

って、ちょっとゾッとしますけど。


好きなことを集めやすい環境を

整えすぎた弊害とでもいうか。


「好き」を好きすぎるようにさせ

求めるように仕向ける世の中。


いまの私たちは

その内容について知らずに

ヘタなこと書いて

恥をかくのを嫌う。


僕らおじさん世代よりも

若い人たちにおいては

書くことは常日頃経験アリだが

恥をかくこと自体を

あまり経験してない。


恥をかく前に指摘されてやめたり

恥をかく行動すら事前に回避してる。


恥をかくことになるからという

情報を事前に調べたりして知っている。

確実に、人生で恥の総量は少ない。


結果的に自分に合うものばかりを

経験してきた傾向があるのかも。


もしかしたら若い人に限らず

中年以降もそうなのかもしれない。

こういう世知辛い世の中になった

原因のひとつがここにもありそう。


考えてみると人間って好きなものを

まわりに集めることが次第に多くなる。

自分の好きなことを周囲に置きたがる。


「好き」を集めたがる。

最近はだから、集め易すぎて

「嫌い」に対しての抵抗力が低く

すぐ敵対感が大きくなりすぎる。


好きという表現を好んでしまうのも

そういう快適なものを無意識に集めて

自分の空間を埋めたい感情なのか。


自分のサイズに合うものを評価して

好きだというけど、合わないものを

すぐに嫌う傾向がある。


ネットの声でよく聴く表現だが

最初嫌いだったけど

好きになった、みたいな発言も

この典型ではないか。


なんか都合良く自分の落ち度をごまかし

最初の了見の狭さを露呈させているようで。


その結果、好きなものばかり

探す意識に疑いを持たなくなり

好きを好む意識に拍車がかかる。


自分の最初のサイズ、つまり

その時点での経験上の常識では

対処しきれないものに出会うと

嫌いというストレス感情が上回る。


イヤだ、不快だ、不愉快だ。

言葉で態度で抵抗する。

アレルギー的な拒否反応。


感情をコントロールする

というのは、ワタクスが思うに

「好き」と「嫌い」が

混在する状況が前提にあるべき。


どちらかというと「嫌い」をも

ガマンじゃないが、受け止める。

受け入れなくても、一時的受け止め。


「好き」にいつも囲まれていたい

その気持ちはわかる、もちろん。


が、どこかで「嫌い」が来たとき

あぁ試練だコレ。試されてるぞと。


そのスタンスをわざと取る。

ワタクスはなるべく

そうするようにしている。

成長するための試練で。


じゃないと、なんか弱くなる

そんな気がしてね。


昔はこれをガマンして受け入れた。

それはガマンするのが常識と言われ

刃向かうのが許されない雰囲気が

あったからだろうと思う。


だからといってガマンしない

受けつけないにしたらなんだか

世の中おかしくなってきた。


たぶん「嫌い」は

言い換えればファーストタッチ。

それがわからないとか不愉快で

「苦手」って発想になるんだろう。

一時的な嫌いは、苦手。


それも経験してあるいは

一度負けたり、克服したりして

苦手意識が緩和される。


それが成長だと思っていて

0か100にしたがる

即座に嫌いという拒否反応は

次第にしなくなるはずなんです。


世の中のリアルはどうやら

面白いとか、ふざけてるとか

悪態のイメージを嫌ってきた。


好きとか、スゴイとか

称賛するキレイなことを

単純加算するポジティブを

求めているんですよね。

このほうがラクだから。


一度でもマイナスを受けるのすら

嫌ってしまう傾向が強くなった。


面白いとか、ふざけるとかは

ちょっと差別的だったり

刺激的だったりするから

最初チクっとするんですよ。


嫌いから入って好きに変わる。

その経緯は、わかりあえた感覚や

共感できたことで変わる。


この経緯をたどるには互いに

長く時間かけないと成就しない。


でもまず最初に自分に合う好きを

ダイレクトに求めてしまう。


一度での成功を称賛しつつ

一度の失敗は常に却下する。


褒めたい、認めたい、スゴイ、好き。

一気に高揚感が増しそうなことばかり。


傷つけないようにさせ続け

イジメや差別につながりやすい

良くないことを排除したとしても。


傷つけてそれを笑っていた

時代があったのは事実、否定しない。

でもそこから自分の成長につなげて

大きく変われた人もいるだろう。


最初から「傷つけない」だと

傷ついたあとのリカバリーを

体験できなくなってしまう。

ホントに変われるだろうか?


世の中、絶対に誰か人は傷つく。

傷つけることを避けられない。


そこを経験しておくと

許容範囲が広がるんですよ。

でも許さなくするとその後

許容範囲は狭まるんです。


いまの私たちの傾向は

自分に合うことを自分の入り口に

入ってこれるものだけ受け入れ

好きとか言っている。


嫌いとかネガティブな意見に

左右されて中止したり延期したり。

世の中を少しどころか大きく惑わす。


しかしその意見は本当に正しいか。

最初の嫌いが本当に正解だったのか。


そこでやめてしまう企業や人は

その勢いも意欲も、削がれてしまう。

傷つきたくない、傷つけたくないに

加担してしまって脆弱にしてしまう。


なんかおかしな方向に進んでいる予感。

勇気をもって下げない、引かない意地。

逆にいまは必要なのではないだろうか。


日本がどんどん小さくまとまって

視野も狭くなっていく気がするんです。

みなさんにも心当たりあるのでは?



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