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明智光秀の謎③ 謀略の天才による被害者たち

①前半生②焼き討ちの首謀者の続きです。

サイコパスの特性から見た明智光秀の前半生と比叡山焼き討ちの真実についてみてきました。今回は信長を討つために、虎視眈々と進めていた光秀による謀略の数々を紹介します。

欺かれた荒木村重

本能寺の変の4年前の天正6年(1578年)、信長の信頼の厚かった荒木村重が突然籠城をはじめ、信長に反旗を翻した。

当時、村重の兵が本願寺に兵糧を運んでいるという噂があったので、村重は噂を否定し謀反する気などないことを信長に伝えようと安土に向かった。その途中で村重は、家臣の中川清秀や高山重友(高山右近)らから「信長様から一度謀反を試みたと思われたら、虐殺される。こうなったからには、毛利氏に頼ったほうがいい」と説得された。

事実は信長は村重が本当に謀反を起こそうとしているのか信じられないでいた。しかし、その後さらに、光秀から「信長様はひどくお怒りだ。安土に着き次第、処分される事になっている」との知らせが来た。自分の嫡男村次の嫁の父からの情報なだけに、村重は光秀の言葉を信じ、引き返して籠城を始めた。

これは、「陰徳太平記」にある「光秀謀略説」とも言われる記録だ。一般的には突拍子もない説と見られているが、光秀がサイコパスだとすれば、十分にあり得る。

光秀の狙いは「村重が近国にいて信長に忠誠を尽くせば、将来信長を討つときの邪魔になる。だから、この機会に滅ぼしておこうと考え、村重に伊丹籠城を勧めた(桑田忠親著『明智光秀』)」のである。

もっとも歴史学者の桑田氏は、この「明智光秀の謀略説」を否定している。「光秀が信長に叛逆した場合、光秀と姻戚関係のある村重が近国にいるほうが、味方を求める場合、光秀にとって、かえって、はなはだ都合がいいのだ」から、光秀謀略説などあり得ない、というわけだ。またこの頃から「打倒信長の計画を立てていたとは考えられない」と主張している。

光秀が良心をもつ武将と思えば、桑田氏のように考えるのは普通である。しかし野心があってまあまあの能力を備え良心がない人間(サイコパス)は謀略の天才と化する。光秀は自分が謀反をおかしたときに、村重が味方になることはない、とサイコパスが持つ特有の嗅覚で感じ取っていたのである。

そこで光秀は、この時、村重の嫡男村次に嫁いだ自分の長女、明智倫を荒木家と離縁させ、明智左馬助(明智秀満)と再婚させた。明智秀満は、その後、光秀の家臣として、「本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した(桑田忠親著『明智光秀』)」。光秀は秀満なら容易に取り込めると感じていたからだ。

二枚舌はお手の物

籠城を始めた村重を、信長は家臣を通じて説得しようとしたものの、村重は籠城を続けた。

一方で、村重に「信長に虐殺されるから」と籠城を勧めた家臣の中川清秀や高山右近は、城を攻められると信長にあっさりと降服するという矛盾した行動をとっている。

おそらく、清秀や右近が村重に不満を抱いているのを知った光秀が、甘い言葉で彼らを誘い利用したのだろう。また本願寺に兵糧を運んでいたのは清秀だったという説があり、光秀がその清秀の弱みに付け込んで、村重を裏切るように仕組んだのかもしれない。いずれもサイコパスが謀略に使う常套手段だ。

頑なに村重が籠城を続ける中、説得役を務めたのが光秀だった。しかし、村重は天正7年(1579年)年9月、有岡城から突如遁走し、嫡男村次のいる尼崎城に向かったのであった。それでも、2か月後の11月には、光秀の交渉の結果、「尼崎城、花熊城の二城を明け渡せば、村重の命も伊丹の将兵の命も助ける」ということになった。

しかしながら、どういうわけか、村重はこの条件を受け入れようとしない。信長はとうとう激怒し、村重にこの条件を伝えようと、重臣たちが尼崎城に向かう際に有岡城に残した妻子ら人質を処刑するに至ったのである。

ここで気になるのは交渉役を務めた光秀が、実際にはどのような内容をもって村重やその重臣たちを説得したのか、そして信長にどのような報告をしていたのかである。

重臣たちには、有岡城を離れることで城内の人たちの命が助かるとそそのかし、信長には彼らはやはり裏切り者だと伝え、信長が怒るように仕向けたのかもしれない。さらに村重にはかつて欺いた時と同様、籠城を密かに勧めていたのだろう。サイコパスなら難なくこんな二枚舌、三枚舌を使いこなせる。

ことの顛末を知った時、村重が自分の行動を悔いたのは間違いない。光秀に騙されたと訴えることもできたかもしれない。しかし時すでに遅しだ。卑怯者とみなされた村重の言葉を真実として、耳を傾ける者などいないことは村重自身がよく理解していた。

サイコパスがなにをしたか人に打ち明けると自分自身の正気が疑われるため、話すのをためらうようになり、口を閉ざしてしまう。(『良心をもたない人たち』)

自分のした事を悔いた村重は、その後、武士の世界からは離れて茶人として生き、出家の道を選んだ。

一族を絶やされた波多野氏

光秀のあからさまな陰謀にはめられ、一族を絶やされた例もある。八上城の波多野一族だ。

信長によって天正3年(1575年)に丹波攻略を命じられた光秀が、黒井城を攻めた時、八上城主の波多野秀治は当初光秀の味方をしていた。しかし翌年正月に光秀は波多野氏に裏切られ敗北してしまった。今まで人を騙してきた光秀が、この時は騙され裏切られてしまった。

サイコパスに愛だの感謝などは演技以上のものではないが、恨みは持つ。そしてしつこい。苦杯をなめさせられ、波多野氏に怨念を抱いた光秀は波多野一族を根絶やしにすることを、これから行う丹波でのゲームの優先事項におくようになった。

敗北から4年を経た天正7年(1579年)、未だ八上城を陥落できずいた光秀は、「信長様に従う意さえ示せば、八上城兵らの命は助け、領地も家の存続も保証する」旨を波多野氏に伝えた。その保証として光秀は自身の母を人質として八上城に送ったとされる。

光秀の兵糧攻めに苦しんでいた波多野氏は、光秀の提案を受け入れ降伏し城を出た。ところが光秀は、波多野氏らを捕らえ、安土に送って信長に処刑させたのである。

この光秀による謀略を知った八上城に残っていた兵士らは、人質となっていた光秀の母を殺してしまった、ということだ。その後、城外で、明智軍と戦ったが八上城の兵士らは、みな討ち死にし、丹波の波多野一族は根絶やしにされた。

ところで、光秀が人質として母を送ったというのは、今では史実ではないというのが定説になっている。そもそも兵糧攻めに苦しんでいた波多野氏を滅ぼすのは時間の問題で、人質を送るような策を講ずる必要はなかったのである。それに素性の良く分からない光秀が、当時実母と共にいたとは考え難い。もしかしたら母と偽ってある女性を送った可能性はある。光秀ならやりかねない事だ。

いずれにしても、八上城の戦いは光秀の残酷・非道さを露わにしたサイコパスの典型的謀略を示すものだ。

◆ 続く

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