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念仏や禅で衝動を上手いこと使いたい

久々のnoteだ。何を書こうか。
書く前になんか強いストレスを感じた。
忌避感?胸がざわざわして落ち着かない感じ。変な衝動。
僕は色んなシチュエーションで衝動を感じる時がある。
ご飯を食べてるときはすぐ飲み込んでしまいたくなる、よく噛みたくない。
一つの動画やページをずっと見ているのも苦手だ。2分もしたら別のものを見たくなる。
この2分という数字は一回自分が動画を変えたくなる時間を計って分かった。
父もテレビを見ていてCMになったら別のチャンネルにしょっちゅう変えていた。血筋かもしれない。
衝動に従わないというのはずっとできるようになりたいと思っているが難しいな。

そんな感じで今noteを書いている。
あ、なんか首が痛いな。
最近引きこもって画面ばかり見ている生活が続いていたからかな。
同居人に疲れている顔をしていると言われた、最近ずっと疲れていそうだと。
自分ではあまりそんなつもりはないけどそいつが言うならそうなんだろう。
疲れているときは認知機能も落ちているから疲れている状態を自覚できないって精神科医の樺沢紫苑が言ってたっけ。
だから僕は今疲れているんだろう。

書いてる途中で首の痛さに耐えられなくなったからYoutubeでオガトレという人が解説する動画を見てストレッチをした。
そしたら大分楽になった気がする。
多分今はnoteを書くのが嫌なんだろう。
勉強をしているときとか授業を受けてるときとかの自分が嫌なことをしてるときはやたら体はうるさい。
ゲームとかしてるときはそんなことないのに。
逆に腹が減っても眠くなってもお構いなしなのに。
noteを数日かかないだけで自分にとっては負荷の高いものになってしまってるんだなぁ。


さっきnoteを書けない気分になって中断していた。
何か書こうという気力はあるがそれが言葉となって射出されない。
トリガーをいくら引いても言葉が出てこない感じ。
こういうときは書こうとしてもムダだ。
以前「思考は物理的に動いて回す」というnoteでも書いたが、思考がその場所でだめになった時は場所を変えた方がいい。
無理やり書こうとしても、一度空間に嫌われてしまうと中々書けない。

書けなくてモヤモヤしていた。
一度打ち止めにしていると何か嫌な感じがした。
ドロっとした言語化できない感情が内側から溢れてくる感じがあった。
それでネットサーフィンのしたい衝動が起こった。
ああこのドロドロしたものが「不快な自分」なんだなと思った。
それから逃げるためにネットサーフィンがしたくなるのかとも。
こういう時は禅は向いていないのかもしれない。
こういう捉えがたいイヤな感じの自分を観察しても病んでしまいそうな気がする。
こういう時は念仏とかの方が向いているのかもしれない。
しっかりと意味を理解していない言葉で自分を埋め尽くしてしまう。
そうして思考とか感情とかを放棄してしまう。

念仏もネットサーフィンも(僕の勝手な解釈では)現実逃避である。
ただネットサーフィンの良くないところは意味のある情報を大量に頭にぶち込んでしまうところだ。
これだと頭が疲れてしまう。
でもそれが目的なんだろう。
頭が考えられなくなるぐらいに外部情報を浴びせて「自分」を忘れさせる。
頭をパーにするという点においては飲酒に近い。

念仏のいいところは多分頭は疲れない。
(自分にとって)意味のない文字の羅列をずっと唱え続けることで「自分」を消す。
「不快な自分」が更に自分を傷つけることを防ぐ。
あとこれは仮説やけど念仏もアイデアを湧かす上では禅と一緒で役に立ちそうやな。
一度考えることやアイデア出しを放棄することで逆にそれらを促進させる。
自分の思考することに対しての衝動性を禅や念仏などによって衝動を抑えることで活性化させる。
こうして出てきた思考は無理やり捻り出したものではなくてふと出てきてしまったものだから、それによって文章も楽にかつ自然に書ける気がする。

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