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愛について管を巻かせてください

今日は愛について語りたいな。
ちょっとはずいけど、てゆーか俺noteで教養とか愛とか虚無とか少し語るには気恥ずかしいテーマのやつばっか最近書いてる気がする。
まあいっか、そういうのがリアルで好きなだけ語るのが難しくてnote始めたわけやしね。

なんで愛について語りたいかっていうと、最近漫画とか本をこの愛という軸で読み解いていこうとする癖があることに気づいたから。
その本や漫画の中で愛がどのように語られているか描かれているかが気になっている自分がいたんよな。
ヤマシタトモコの「違国日記」、ひぐちアサの「家族のそれから」、野田サトルの「ゴールデンカムイ」、太宰治の「駈込み訴え」。
全部違う形でやけど愛がどのようなものか、どうあってほしいかについて書かれてる気がする。
愛というテーマを重んじて読んでいる自分がいる、愛は自分にとって重要であると気付いた以上、やはり自分なりに愛について語りたいなと思った。
前々から語りたいテーマではあったからムズそうやけど楽しみやな。

ゆーてこういう読み方をし始めたのは、この読み方を重視するようになったのは最近なんよな。
この前にエーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳の「愛するということ」を読んでから。
この本は、愛するとはどういうものかとか愛にどのような種類があるかとかどのように愛すべきか愛せるようになるかについて体系立てて書かれた本。
なかなか中身が濃密な本で読みながらいやちゃうやろとかマジで分かるーとか共感しながら読んでた。
大枠は共感できたけどちょいちょい意見が違うなーって感じやったな。
うろ覚えやけどこの本についても色々語ってきたい。

まず愛は主体的、能動的、完全性を持つものであるというメインの意見についてはマジで一致してた。
うん。やっぱ誰に対してもちゃんと接したいよな。(これが完全性かな?)
あと相手が愛してくれるからその見返りにとかじゃなくて自分から積極的に愛したい。(これが主体性、能動性?)
これは行為を押し付けるわけじゃなくて相手のことをちゃんと見ながら考えながらね、勿論。

あと愛って両者の合一を求めるものだよねって意見も好き。
昨日の教養のnoteでも書いたけど、教養も一種の愛の形やよね。
あなたのことが好きになりたいから、あなたの好きなものを理解したいよ。
あなたの感情を理解したい、あなたの心を理解したいよ。って感じの。
相手と一緒の感覚になりたい欲求があってそれが愛っていうのは部分的にはそうやなって思った。
ただ相手の心が完全に理解し得ないとか合一できない、人間はわかり合えないこともあるって言うことを心の中で踏まえとかなエゴの押しつけになりそうで気をつけやなあかんなって思ったけど。

こっからが微妙に合わへんだポイントなんやけど、愛の目的については色々引っかかるとこあったなあ。
フロムは愛することで対象への責任を持ったり、成長を促したり依存から抜け出して自立するというところを強調して言っている、どちらかと言うと強者の意見に思えたんよな。
でも俺は愛によって対象の弱さや嫌なところも肯定、受容してこうよっていう弱者側の意見を強調して主張したかった。

フロムは「ああなりなさい、こうなりなさい」っていう条件付きの父性的愛と、「あなたを絶対肯定します」って無条件の母性的愛どっちも大事って言ってた。
でも俺は無条件の母性的愛だけで良くね?って思った。
というかじゃないとしんどい。
これは俺がADHDだったり病弱だったりの社会的マイノリティで、どうしようもなさそうというか完全に消せなさそうな社会不適合性があるからなんかな?
それとも東洋思想と西洋思想の違いか?
日本のHENTAIやアニメ、漫画等のオタク文化とかも歪みを肯定したからこその愛の表れな気もするし、「かくありなさい」っていうのは日本の風土に合わないんちゃうか?

あとフロムは「愛は技術で知識とか修練で身につけやなあかん」って言ってたけど、これも大枠では同意やけど微妙に意見違う。
俺は愛は誰しもの心に生まれつき備わってると思う。
でも状況とか自分の状態、愛に対しての理解度によって出やすい出にくいはある。
だからなるだけ愛が発揮されやすいように勉強するなり実行するなりして努めなきゃいけない。
愛が後天的に獲得するか先天的に持っているけど磨いていかなきゃいけないかみたいな違いなんかな。
僕は仏性を誰しもが持っているという仏教の考え方が好きやから、愛も先天的に人間の細胞に刻み込まれて完全に備わっているものであって欲しいと思ってる。
みたいなことをごちゃごちゃ考えてた。

愛についての考え方だとヴィクトール・フランクルもやっぱり好きやな。
フランクルは、オーストリアのユダヤ人の心理学者でナチスからのホロコーストを受けてしまう。
妻や両親とも隔離されて、収容所で過酷な生活を強いられるが、そこで改めて妻への愛が可能なことに気づく。
妻が今近くにいる、生きているかどうかに関わらず妻を愛することが可能で、また妻からの愛を実感することも出来ると考えた。
また、収容されたユダヤ人の中で自己保身のために同じユダヤ人を虐める人もいればナチスの看守で寒さに苦しむユダヤ人の為に身銭を切ってコートを支給した人もいた。
このことからいかなる状況であっても、自らの振る舞いを選択する自由が常にあるとフランクルは考えた。
この考え方は正しいかどうかは置いといて前向きで実践的ですごく好きだ。
また、フランクルはカントの定言命法を引用して人間には自由があることを主張する。
「~ならば、~せよ」という仮言命法じゃなくて、「とにかく~する」という無条件の行為のみが正しいとカントは主張する。
人によく思われたいからとか、感謝されたいからとかじゃなくて、とにかく人には優しくする的な感じ。
条件付きの場合、その道徳律、格律(ルールとか基準)って信用できんくね?世界に対して普遍性を持ってなくね?ってところから、カントは定言命法からの行為のみが善行として認められると言う。
この定言命法からの善行っていうのが俺はめちゃしっくり来てる。
なんで善行するの?っていう問いに対して自分のためも他人のためもどうにも腑に落ちなかった。
ただカントの言うように道徳律の普遍性を保つためならやれるなって思える。
もっと分かりやすく言うとこういう世界であってほしいと願う、信じるのを自分の行動で自分に証明するためにやるのかな。
無条件に優しくしたり愛したりすることで世界に愛や優しさが存在することを自分に証明する。
それにまぁ、人は鏡みたいなもんやから俺が愛を持てば周りも愛をもつんちゃうのかな。
それがいい感じに巡って世界が愛で満ちてくんちゃうかな。
そんな感じの行動理念に従って行動していきたいです。
そう思って、お店の店員さんやバイトのお客さんにはなるだけ礼儀正しく接しようと思っています。
ありがとうはちゃんと言おうとしています。

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