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「カラオケ行こ!」大人は成長してなるものじゃない。

関西弁の綾野剛を見たいだけだったのに

「関西弁の綾野剛良すぎる」「絶対行ったほうがいい」と会社の同期から連絡が来たので、次の週末には映画館に飛び込んだ。実際とても良く、見てから一週間程つ今日も彼の幻影が見えるくらいには好きになったが、関西弁ヤクザの綾野剛さんの良さは皆さんが語ってくださるのにお任せします。

それよりも、作中の合唱部があまりに合唱部すぎて、色々思い出し、聡実くんの気持ちも少なからずわかり、強く胸を打たれた。元合唱部のわたしは、いてもたってもいられず筆を執った。

※筆者は、高校時代に全国大会に行けるかいけないかくらいの強豪校で、合唱に明け暮れた。練習は週6。筋トレもした。変声期はなかったが、声のことでいろいろ悩んだ。




わたしは和田のこと好きだよ

Xで感想を漁っていると、和田のことを「妙にやる気あるやつ、みんなを白けさせる」と言う人や、ももちゃん先生のことを「頓珍漢すぎる、代打に過ぎない顧問」と言う人が散見された。その気持ちもわかるし、そういう側面もあると思う。

しかし、元合唱部の私が見ると「あまりにも見たことある景色」だったし、わたしは和田でも聡実でもあった。だから一概にそう冷笑することはできなかった。

まず、状況設定が秀逸すぎる。

おそらく森岡中合唱部の「強さの秘訣」であった顧問が産休育休でいなくなってしまい、去年はいけた全国大会にいけず、銅賞に終わってしまう。

コンクールという賞レースにおいて、指導者(指揮者)のウエイトがあまりにも大きいのは、本当にそうで。同じ曲・同じ演者・同じ伴奏者でも、指揮者によって生きたり死んだりする。良い指揮者の前では、実力以上に声が出て、繊細な感情が歌に乗り、声のかたまりが龍のようなうねりになる。良いDJに踊らせられるのと一緒。

それに対して、演者=生徒のあまりにも無力なこと。おそらく、歴代の栄光は自分たちの実力だと天狗になってた生徒たちの鼻をへし折ったことだろう。

映画の通奏低音となっている、「子どもと大人の対比」というテーマにおいて、子どもが大人に敗北するシーンからいきなり始まるのはかなり重要だと思った。指導者が物を言う賞レースに挑むのに、定期的に異動がある公立学校の圧倒的不利さ(実際、私学が強いがち。武庫女とか宮崎学園とか)。そんな大人の事情、理不尽さ、ジレンマを初っ端から見せつけてくるとは。

※映画を見た後に原作漫画を買ったんですが、この設定は映画オリジナルだった。野木亜紀子先生は合唱部だったのか?!

おそらく実際に指導者の問題で勝てなくなったとしても、それをそのままそう言うわけにいかない雰囲気。子どもは思ったより、大人との権力勾配に自覚的だ。ももちゃん先生の「(盛岡中に足りなかったのは)愛やで」という、やさしい嘘。副部長をはじめとして、「半分大人」な女子生徒たちは、自覚的にそれに乗っかってた、そうせざるを得なかったんじゃないかなと思う。

和田はそれに苛立ってた。これまで真面目に取り組んできたがゆえ、所詮自分たちが大人の代理戦争の手駒であったことを認めたくなくて、必死に改善点を聞きたがったのだと思う。そんな和田は「子ども」、その面倒を見る副部長は「子守」。コントラストが効いていて、物語を理解するのに良い補助線になっていたと思う。

そんな状況が「あまりにも見たことがある光景」すぎて、いきなり胸を打たれた。わたしは平部員だったが、副部長でもあったし、和田でもあった。わたしは和田のこと分かるし、無理もないと思うよ。世界の終わりに立ち会ったかのように一生懸命な君が好きだよ。

聡実はなぜ「手を抜いた」のか?

合唱は「数」が物を言う。部員数が比較的少ない男声ならなおさら。「絶対に舞台に乗ってほしい」という磁場が、メンバーからも先生からも働く。でも、合唱は集団競技ゆえに、雑音が混ざると全体を損なってしまう。聡実にもそれが分かる。つまり、声変わりの始まった聡実は、「いなくちゃいけないけど、いてはいけない存在」になってしまった。だから手を抜いてでも歌わざるを得なかった。

だから聡実は、声変わりを隠したいからとか、和田にソロを奪われたくないからとか、ただ自暴自棄になったからとかではないと思う。天使の美しさを追求してきた2年半があったからこそ、期待に応えたい想いと、天使の衣装にシミを作りたくない思いで板挟みになり、歌えなくなってしまったのだと思う。

そして、soloやsoliのある曲も多いため、きっと森岡中合唱部のような強豪校ではオーディションがあったのではないかと思う。

※冒頭のコンクールの元ネタはおそらく、全日本合唱連盟と朝日新聞社が主催の「朝日」と呼ばれる方のコンクールだと思う。わたしが所属した部では、毎年夏から秋にかけて「Nコン(NHK全国学校音楽コンクール)」と「朝日」の2つのコンクールに挑んでいた。Nコンは一度に歌える人数に制限があり、部員数の多い強豪校では、7月のテスト前か明けくらいに、オーディションがあるはず。ちなみに吐くくらい緊張する。

合唱は実は実力主義の世界で、上手い者だけが舞台に乗ることができる。

※そういう意味で、合唱祭のソロが内々に決められたのには違和感があったが、引退前の「イベント(≠コンクール)」なので花を持たせたかったのか。和田が不服そうにしていたのも無理もない。

ただ実力があるだけでもだめで、他の人を押しのけて「舞台に乗る価値がある」とみんなに認められるには、練習態度が良いことが必要だ。だから練習に来なくなるのは万死に値する。

※我が部では、前述のNコンオーディションに通ってメンバーに選ばれた子が、遠方の大学のオープンキャンパスがてらに小旅行に行き、何日か練習に穴を開けたことが大きな問題になった(メンバーから降ろされたんじゃなかっただろうか)。あとは、違うパートが指導を受けている間に、英単語帳を勉強しはじめた後輩が糾弾されたり。多くの怒りや涙を見てきた。合唱部は、案外妬み嫉みの世界である。

そんな力学がある中で、聡実のサボタージュはかなりまずかったはず。和田なんかは我慢ならないだろう。それは正当だ。

それでも、戻ってきた聡実が無視されなかったり、卒業式の後に部室に戻れていたりしていた。フルシカトされたり後ろ指さされたり、良心の呵責に苛まれて、行けなくなっても良いくらいなのに。この2年半、聡実がいかに部に貢献し、いい部長だったのか、、、。それがにじみ出てた良いシーンだったと思う。

※和田は聡実の声変わりに気づいてたのか?気づいてたとして、いずれ自分に訪れるものとして恐れ、尊敬する先輩だからこそ、聡実に立ち向かってほしかったから、あんなにキレてたのかな。でも天使(ソプラノ)の死を認めたくなくて「手抜き」と認識したのかも。漫画版ではもっと直接的に和田も先生も気づいてたし、聡実は自分で「変声期から逃げました」と言っていた。

「狂児のあほ!」で聡実は大人になった

終盤、狂児に合唱部の活動を軽んじられたと感じて、「3年間本気でやってきた、遊びとちゃうねん!!」と聡実が激昂し、元気守を投げつけるシーン。その後、狂児が「大人な対応😂」をするところまで含めて、とても重要なシーンであり、聡実の気持ちもある程度理解ができるんだけど、ちょっとモヤモヤしてる。

形はサボってたとはいえ、ずっと喉仏を気にして、「うまく歌えないと思う」と弱音を吐く聡実は、もちろんずっと部活のことを考えてたと思う。部活の、というか、自分の存在価値のことを。合唱は身体性の高い競技だから、部のリーサルウェポンだった天使の歌声が出なくなって、自分が丸ごと否定される恐怖に陥っていたことは想像に難くない。

だから素直に理解すれば、聡実が激昂するのもおかしくない。ヤクザは本業が歌じゃないから、歌が下手でも、うんこみたいな刺青が加わるだけで、そのときは痛いかもしれないが、魂は死なない。「聡実は歌が下手だと魂が死ぬ」と、あの瞬間は思ってただろうから。

※このあたりの、合唱への切実さ、「のほほん」への反動を表すのに、森岡中合唱部が強豪校であるという設定が効いていたと思う。漫画版では、和田が「初めて賞を取った(しかも銅賞)」と述べていて、さほど強豪でもなかったのでは?大人の鑑賞者からしたら「のほほんとした子どもの部活」と捉えられかねないから。

でも本当に「歌が自分のすべて」ならば、狂児とカラオケに行っている場合ではなかったはずや。パートをアルトに変えて練習するとか、変声期と言えども向き合い方はあったはず。強豪校なら、パート替えは日常的にあるはず。今後の合唱生命を伸ばすためにも。

ではなぜ、狂児とのカラオケを選んだか。

それは、自分は声が出なくても、歌の申し子でいられる、甘い装置だったから。

※聡実の言う通り、カラオケ歌いと合唱歌いは全く違う。ほぼ毎日の練習で発声は合唱に引っ張られてるのに、聡実がカラオケも上手かったのは、本当に歌が好きなんだろう。

本気で歌が好きなら、遊びではないなら、取るべき行動があった。でもそれを取らず、甘い選択肢を用意してくれた怪しいヤクザについて行ってしまう。

その矛盾、汚さを選んでおきながら「遊びとちゃうねん!」とは言えないはず。だから自分はモヤモヤした。

そして、聡実は、あの瞬間、
清濁併せ呑むおとなになった。

作中ずっと、子どもと大人の対比がされていた。モチーフを変えて何度も何度も。声変わり、「和子の思い出が詰まっとるんや…」の嘘でヒモとして世渡りしていくずるさ、サンタクロースの不在、名前や住所を明かしてしまう軽率さ、そしてカタギの愛≒ヤクザの仁義。

※聡実がこうした「大人の要素」を吸収していく過程は、映画オリジナルの「映画を見る部」での独白とも対話ともいかない形で描かれた。漫画版での、卒業文集の地の文=聡実の一人称で、目に見えないところが語られた体裁とは大きく変わっていた。それも、青臭すぎず、とても受け入れやすかった。

和田に象徴されるように「正論はつねには通じない」し、狂児やミナミ銀座に象徴されるように「暴力はのさばってる」けど、「愛の名のもとに清濁を併せのむ」ことが大人だ、というメッセージに感じられた。

大人は、成長してなるものではない

最大の「清濁を併せのむ」行為は、変声期を迎えて天使のソプラノが出なくなったとしても、聡実が合唱祭でソロを歌うことだったと思う。

「うまく歌われへんと思うけど」とこぼした聡実に対して「いいじゃない」と送り出す母、「あほやなあ、綺麗なものしかあかんかったら、この街ごと全滅や」と言った狂児。素敵な大人に立ち会ってもらって、聡実は幸せだったと思う。

しかし、結局は最後の合唱祭を蹴って、スナックに乗り込んだ。私情を優先して。頑なに歌わなかった聡実くんが、大勢のヤクザを目の前に歌う。狂児へのレクイエムという大義名分を得て。

それは果たして成長なのか?

おはなしをきれいに落とすなら、
①合唱祭で聡実にソロを歌わせて、かすれる声ながらも喝采を浴びる
=恐怖に立ち向かう、下手くそを受け入れる、男になることを受け入れる、和田とのきれいな和解(シンジくんおめでとう、的な)

②狂児に紅を歌わせる
=修行の成果の発揮(鬼滅の刃、的な)

という2つの「戦いの終わり」を描いたほうが、オーディエンスとしては腑に落ちた気がする。

でも、ジャンプ的にそうしなかったのは、大人とは「成長してなるもの」ではなく、「オトシマエを落とす、仁義を切ってなるもの」だということを伝えたかったんじゃないか?

おとなは成長してなるものじゃなく、
諦めを受け入れて、でも仁義を尽くしてなるものだ。

体が成長して、かならず良いものになるとは限らない。聡実のように天使の声を失うという弱さもある。
都市が成長して、かならず良いものになるとは限らない。繁華街やスラムが生まれ、犯罪や暴力の温床になる。
そして、それでも生きている大人がたくさんいる。

だからこれは、聡実の成長物語ではない。

危険な大人に惹かれ、理不尽を受け入れ、自分に都合が良ければ汚いほうにもなびき、愛の名のもとで(=眼の前が紅に染まって)オトシマエをつけて大人になる物語だったんではないか。

※漫画原作のおそらくミソである「助手席に座った人間はなんでか俺から離れられへん。女も。聡実くんも。乗り心地がよろしいんでしょうなぁ」をカットしたことは、原作ファンからは賛否両論あったのでは?と漫画を読んだ今なら思うが、個人的には良かったと思う。狂児の属人的な魅力(人たらし)に聡実がやられるというBL的な要素を薄めて、「大人の狡猾さ」に子どもが絡め取られるという大きな文脈に読めたから。

一時の幻は永遠に…ってえぇ!?

一時の幻=人生における不可解な存在として狂児は聡実の心の中に輝き続けるだろう。大人に生まれ直す第二次性徴期の助産婦として。

あるよね、だめなことやとわかってても、ずるくて汚くてかっこいいおとなになびいてしまう時期。

って、おい!!!

狂児生きてるやんけ!!!
聡実は狂児の面影を探しに
みなみ銀座をうろつくな!!!
最後、通話すんな!!!
幻で終わらんかい!!!!!

ファミレス行こ。はまだ読んでないので、
これから楽しみです。

【番外編】細切れの感想

①副部長、器量良すぎ。同級生の中でいち早く結婚します。マジで。

②狂児より歌下手なヤクザ、いっぱいおった。聡実くんに縋らずにいられなかった大義名分がないようにみえる。途中からは単純に聡実くんのことを気に入って、狂児が追っかけてたように見えるけど。

③ももちゃん先生がいわゆるガハハ系で、指揮者の男の人が声変わりに気づいた寮母さん系。ジェンダーロールをわざと外す感じもよかった(声変わりという題材だったことで、男性がケアの必要性にいち早く気付く設定も不自然さがなかった)。でも、聡実の母にメールしたのはももちゃん先生。どちらの性別もやられっぱなしにならないバランス感。さすが野木亜紀子作品。

④銃が出てこなかったのはなぜ。流れ弾から聡実を守るために、狂児の腕から血が流れるべきやろ。ヤクザを優しく書き過ぎでは?

⑤歓楽街が潰れてホテルになるの、新今宮すぎる。

⑥やたら上手いと思ったら、エキストラに幕張総合。Nコン常連の強豪校。さすが。杉並児童合唱団の名も。やはり。

⑦和田の口癖「肩を持つんですか?」と、狂児の距離の詰め方=肩に手を回そうとする仕草は、ある種リンクしてたんだろうか。狂児の、あの距離感の詰め方は、本当にいかにもホモソーシャルすぎて、まじこわかった。和田や合唱部のみんなと対比したらなおさら際立つ。

卒業式に和田の肩に手を回す聡実を見て、ホモソーシャル的なふるまいを身につけて、聡実はおとなになったし、おとこになったんだと思った。そして、中学という青春を卒業したんだと思う。

(おわり)

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