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人を愛する強さがない

我が家の女衆3人(母、私、妹)が、人間関係において同じ課題にぶつかったことがあると発覚した。

それは、「○○はあたしのこと誘ってくれないよね」と人をガッカリさせちゃうこと。

母50代半ば、私26歳、妹20歳。母は、かつての人見知りのスポーツ少女。私は、参謀タイプのサブカル女性。妹は、人の上に立つ資質を持つオタク少女。年齢も時代も性格も違うのに、同じ指摘を受けてしまうほど似通った「対人関係のアティチュード」。血は恐ろしい。

何気なくお出かけ先のカフェで話していて分かったことだが、私たち3人とも、あまり他人に興味がない。そして「みんななかよく」は義務教育が生んだ偽善・絵空事だと身に沁みて知っている。だけど、物事を効率的に運ぶために「表面上の仲の良さ」が必要だとも知っている。その結果生まれるのが「その場その場では人当たり良く卒なく喋るが、決して心を許さない悲しきモンスター」である。

あくまでも「表面上の仲の良さ」をしていますよ~という了解がある場面ではかなりうまく作用するのだが、人によっては、私達のようなモンスターを「思わせぶり」「八方美人」「サイコパス」と呼ぶ。

私自身の事例で言うと、仲の良い会社の同期がいる。大学3回生のインターンシップで出会ってからの付き合いだから、かれこれ7年。性格や考え方はかなり逆だが、興味関心がとても近い。面白いと思うTweetがかなり一緒(互いに見せたわけでないのでわからないが、たぶんTwitterのタイムラインがかなり一緒)。そして「考察癖」と「思考力」と「言語化力」が同水準で(彼女のほうがすごいけど…)、「推しとは何か」「好きとは何か」みたいなやや抽象的なテーマについても意見を言い合い、見識を深められる仲。互いに何かのオタク。ベン図の重なる面積もそこそこ広いし、重なった部分の奥ゆきが深すぎる…という関係性。

でも、「これは人と一緒にやりたい」と思う感覚にかなり乖離があり(彼女は何につけても人との関わりを持てるタイプ、私は一人で内面に浸るタイプ)、「(私の名前)さんからは誘ってくれんよね」「一緒にやりたかったのに~」と言われてしまうことも多い。

そう言われたときに、私たち悲しきモンスターが何を思うかというと。

まず「…なるほど!」と新鮮に驚く。これを人と一緒にやる発想がなかった、と驚いて、誰かと一緒にやる選択肢もあったのだなと初めて思い至る。
その後に「…たしかにゴメン」と思う。『友情や愛情の矢印について、長さにあまりに差があったり、ベクトルがあまりに一方的だったりする場合、人は不満を持つ』という一般常識は持ち合わせてはいるので。彼女を悲しませてしまったことについてはとても申し訳なく思うが、それがなぜ彼女を悲しませているかはイマイチぴんと来ないまま。

以前「なんで全部ひとりでやっちゃうの?」という趣旨の質問を受けて、「そういえば、なんでやろな?」(まじめにやってきたからよ、ネ!)と考えたことがある。

【私】そもそも人を誘うという発想がなかった、自分のやることを『人を誘うに足る面白いイベント』ではないと思っているのかも。
→【友人】私は何をするにも「このジャンルならこの子」「あのジャンルならあの子」という人がいるけどな?私が何しても面白い自信がある。
→【私】(めちゃめちゃ人を信頼しているし、自己肯定感が高いな…)
という会話を交わしたこともあった。

思えば、例えば何かライブに行ったり、面白いものを街で見かけたとしても、LINEで誰かに壁打ちをしたり、思ったことをただ報告することもない。「私が美術館に行って、絵を眺めている時間が、誰かにとって何になる」「私がアイドル応援うちわを作るのに両面テープをはがしている時間を共に過ごして、何になる」「私が今日何をしていたか聞いて何になる」と腹の底から思っている。良質なエンタメを提供できる気がしない(しかし人間は、良質なエンタメが提供される場合でなくても、共にいることがあるらしい)。

まああと、純粋に人と予定を合わせて、人に気を遣いながら時を過ごして…ってのがめんどくさいです。歩きすぎて疲れてないか?お手洗いのタイミングは大丈夫か?お腹は空いてるか?本当は帰りたいんじゃないか?予算感無理してないか?などと考えていると、そのお出かけイベントの目的に集中できない。同伴者を邪魔だと考えているという結論に至った。

(それでも私が共にいようと思った人は、本当に「おまえとおったらおもろいわ~」な人ということになので、関係者各位は喜べ)


そんな私は、今、「相呼ぶ魂」を探しています

どの口が、という感じかもしれませんが。

これは『赤毛のアン』原作でbosom friendと表現されている言葉の、どなたかの翻訳版で採用された言葉だそう。親友、ソウルメイトとも。お気に入りのポッドキャストのパーソナリティさんが「相呼ぶ魂」なる存在のことを話しているのを聞いてから、「そんな人が近くにいてくれたらどれだけ幸せだろうか…」と憧れを募らせている。

本当は、誰かと心を共鳴させたいと思っている。
誰かに分かってほしいと思っている。

「本屋で気になった本」「好きなアニメ」「この前見て面白かったTweet」「よく見るYouTube」とかをまずは共有したい。でも、好きなコンテンツというのはあくまで窓口であって、それは「この世界に対してどんな態度をとるのか」を表明する分かりやすい具体例でしかない。

だから本当は、「私の人間観は」「こういうときどう振る舞うか」「OSにしている世界観は」など、【お前そのもの】を分かち会いたい。全部一緒じゃなくてもいい。まるっと認められなくていい。褒められたいわけじゃない。それでも「ふーん、そうじゃなくて俺は」と無視されるんではなくて、「それ、おもしろいね、もっと知りたいな。今度はあれを切り口に話してみよう」という関係性が結べたら。世界はぐっと輝いて拡がっていくんだ。という期待が捨てられない。

※その反動で、少し趣味の近しいものが現れて「すべてを分かってもらえるのでは??」と期待が持てた瞬間に、目をキラキラさせて(というかガンギマリ状態で)自己開示に次ぐ自己開示をしてしまうきらいがある。良くない。

冒頭の「(1)その場その場では人当たり良く卒なく喋るが、(2)決して心を許さない悲しきモンスター」の話に戻る。

(1)のようにその場その場では人とは交流できる。「おまえはそう思うんだね」「なんて純粋に育った子なんだ…」「おもしれ~女」などと、他人の「世界へのアティチュード」の片鱗を吸っては楽しんで、うまいこと返しができているのだと思う。

でも(2)になってしまっている=他人に期待を持てなくなっているのは、なぜなんだろう。「みんななかよく」は義務教育が生んだ偽善・絵空事だと身に沁みてしまったのは、なぜなんだろう。圧倒的な「わかりあえなさ」がカビゴンのように行く手を塞いでいる。なぜわかりあえないのか。自分の「世界へのアティチュード」を抱きしめられた経験が少なく、自己開示をする勇気がなくなっているのだろうか。

高校の部活や大学の数少ない友達とは、「努力の意味」「恋愛」「家族関係」とかを切り口にいわゆる「深い話」をしてきたつもりだったけど…。チャンバラ用の偽物の剣で表面を撫で合う「楽しい絡み」だけでなく、深く剣を突き刺した傷口を、右にひねるか左にひねるか、その違いを聞く拷問みたいな深いコミュニケーションが足りないのか。でも普通に人ってこんなことやってる?

この圧倒的欠損。
自己肯定感と他者への信頼の欠損。
これが欠けているから人と魂を交わらせられない。
人と交わるには、強い土台が必要。
人を愛する強さが足りない。
自分の、弱さ。


そんなことを考えているうちに26歳になってしまった。

同期の半分は結婚し、高校の時の友だちもちらほら結婚した。休日の活動拠点を、友達とだべるカフェや音楽を聴くライブハウス、お笑いを見る劇場に置くような、友情と趣味に生きる生活をして、意図的にそういうことから目をそらしてきたのに、それでも「結婚」の二文字が追ってくる感覚がある。

大学卒業から2年半ほど付き合っていた元恋人。出生地やサークルが同じで、似たような傷を持っており、居心地の良さを感じていた(私はなぜか人の傷を開示されることが多い)。一緒にいた頃には、その大人な考え方に助けてもらったこともたくさんあり、恩義や尊敬はなお感じているけど、振り返れば、彼は、もしかしたら、私の顔と体しか見ていなかったのかもしれない。

いまの恋人。いわゆる生活共同戦線を組む上での能力(ある程度の生活能力や家族・親戚付き合い)がきっちりしている。人としてまっすぐで素敵な方だと思う。でも、「世界へのアティチュード」が自分と違いすぎる。お互いの世界を見せ合うように、彼の好きな映画をみて、私の好きなコンビを見にお笑いライブに行く。そんなことをしてみたが、溝は埋まるどころか、感性の違いが浮き彫りになるばかりだ。理解はできるけど共感はできない日々が続く。なんで一緒にいるんだろう。

私の世界観を、誰か、抱きしめてほしい。

もう一つ大きな(?)問題があって、色々なことがあり、私の性的衝動がほぼ底をついている(もともと希薄ではあった)。性的交渉のためのパートナーづくりという動機もないわけで、いよいよ人とつながる理由がない。

私は恋愛結婚で設けられた子ではない。母は愛嬌があって人がいいので、父ともなんとか家庭を築いているが「ラブラブ」を見ることのないまま育ったので、恋愛の良さがぶっちゃけ分からない。

「お母さんのことは、もうぶっちゃけ好きじゃないよ」という母。認知症や糖尿病など、老いと病に侵される祖父母。介護に疲れていく。「もうお父さんに何言っても響かへんねん」とあきらめて笑う母。認められたいとか褒められたいとかじゃないねんな。でもなんか、通じ合いたいねん。人はそれぞれの地獄を生きている。たった26年を生きただけで、誰のいのちも預かっていない私では、母の痛みを理解できてはいないなと思いながらも、無言で握手して改札で見送った。

なぜ人は群れをつくるのだろうか。

私の世界観を、誰か、抱きしめてほしい。
私は抱きしめなくていい。
私の世界観を、誰か、抱きしめてほしい。

私が結びたいのは生活共同戦線なのか?やっぱり話し相手にはなってほしいんじゃないか。でも、性的交渉のない友情結婚を望むなんて、自らの選択肢を狭めているとしか思えない。「相呼ぶ魂」なんて夢物語を言っている場合なんだろうか?自分の何か欠損を埋めるのが先なんじゃないか。でも、なにを、どうやって。。。。

きっとこれも、「私から見た世界」すぎる意見になってんだろうな。
こう書いてるけど、お前それ全然できてへんで!とか。
自己中で、目の前の相手のことを何も考えられていないとか。

きつい。

私を、誰か、抱きしめてほしい。


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