記憶の底からこんにちは

高村智恵子が好きだった。かなり昔。

父の本棚に並んでいた本の中で一際目立っていたのが「道程」という高村光太郎の詩集。
父から触っても良いと言われたのが、この本と新潮社文庫の「古事記」。なぜこの2冊なのかは皆目覚えていないし、他に並んでいた本のことも見事に覚えていない。ただ小学校低学年ぐらいの子供に許可したところで、ろくに読めないということを父は考えなかったんだろうか?とは、今になって思うけど。


当時は、父の本棚の本を触って良いことが嬉しくて、分からないなりにぱらぱらページを捲ったりしていた。
「古事記」にはまだ挿絵が入っていたので、それを見つけては帰宅した父に「何の話?」と尋ねた。「それは神様と白兎のお話」なんて風に簡単に説明してくれた。もしかしたら、読んで聞かせてくれたのかもしれない。その後、角髪が好きになったのはこの時の影響も少なからずあるはず。

反対に、「道程」なんてなんのこっちゃ?状態。二段か三段に分かれて書かれた短い文章の集合体。延々と続く文字だけのページ。時折混じる旧字。もう謎の書物以外の何物でもなかった。でも、記憶の奥底には小さなカケラとして何かが残っていたんだろう。

随分と経ってから、智恵子抄を題材にしたドラマを見た。人間であることをやめてしまったと光太郎に言わしめた智恵子と光太郎の生活の話。
智恵子ってあの智恵子じゃん!と、安価な関連の本を買い漁ったり、切り絵や貼り絵をしてみたりとどっぷり智恵子に嵌った時期があった。

彫刻家として確固たる地位を築いていた光太郎の父光雲とまだ少し冴えない光太郎。智恵子は絵を描いていた。智恵子と光太郎は芸術家同士の結婚。小説だったかドラマだったか忘れてしまったし、正確には覚えていないけど、光太郎にこんな感じのことを言わせている場面があった。

絵ではなく詩など文章で表現するヒトであったなら、こうはならずに済んだかもしれない

結婚・同居によって家の中の雑事は殆どが智恵子の仕事となり、彼女の制作時間が削られていく。光太郎は絵を描いているのに、生活の為とはいえ彫刻の小品を作ったりしているのに…。智恵子は制作を出来ないでいる。油絵を描くにはまとまった時間が必要だから…。細切れの時間がいくらあったとしても描く作業に使うことはできないと。


若い頃は、純粋すぎる夫婦の愛のお話みたいに読めてたんだけど、最近、なんか違うくね?と違和感を感じた。こちらがスレてしまったのか…。

まぁ、最近こまめにメモを取るようにし始めたからこそ感じる違和感なのかもしれない。頭の中でしっかりとした言葉に置き換わっていれば字に書き起こせるけど、頭の中でもふわふわ浮かんでいる文字にならない情景のようなものは、時間がたてば空中分解してしまうし、メモッた文字面を見ても再現できないんだから…。文章なら、文字なら、細切れの時間でもいいのか?よくないだろ!(あくまで個人の感想です)

彼女の発病には色んな説があるけれど、色んなものが重なって起こったことは間違いないはず。原因なんて一つじゃない。

東京には空がないと言ったり、もうぢき駄目になると言ったり…。
智恵子抄は好きです。とうの昔に手放してしまったので、また買いなおそうかと思案中。


メモを取り始めたことで、智恵子を思い出すってどういう思考回路してるんだろう?と、自分でも思うし、記憶っていうのはちょっとした切っ掛けで、底からひっくり返されることがあるんだな。ヘドロの中からお宝が!の池の〇全部抜きます…みたいだ。記憶の沼にもたまには酸素を…ってことですかね。




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