見出し画像

伝えたいことはないけど言いたいことはあるのかもしれない


11月30日。
ちょうど一年前の今日は今はなき日テレの朝の情報番組「スッキリ」に出ていた。
人生初のNYで全米学生映画祭を堪能している間に取材の依頼が飛び込み、帰国後すぐ人生初のロケバスで家まで迎えに来られて、ロケ地まで行った。

これまで取材を、テレビ・新聞・ラジオなどのメディア全て合わせると少なくとも20弱は受けてきた。
「今日も明日も負け犬。」の上映会での講演も合わせると、全部で50は超えるんじゃないだろうか。

そして「スッキリ」放送から1年経った今もなお取材、講演会の依頼は来る。
依頼はお断りしたり、受けたり、ぼちぼちだ。


ただ、これまで受けてきたすべての取材で必ずと言って良いほど投げかけられた質問がある。

「最後に小田さんから何かメッセージはありますか」

この質問、2番目に嫌いである

ちなみに1番は、「今後はどんな活動をしていきますか」だ。
理由は今後のことなど想像がつかないからだ。

私は明日のことで手一杯なんだ。
余裕がねえ

さて、なぜ「メッセージ」を問われるのが嫌いなのかというと、私は特段何かを伝えたいなんてことがないからなのだ。
要に、すっからかんなのだ。

脚本家の小田さん
小説家の小田さん

毎回インタビュアーに、「きっと小田さんは物書きだから深いことを言ってくれるに違いない」というキラキラした目が見られるが、いつもそれは見るに耐えない。
そして私も彼らにキラキラした目を向けているかもしれないが、私のキラキラは絶望の涙のキラキラだ。

私でも不思議なのだ。
文章は書きたくなるのに、今だって書かなきゃいけない記事を差し置いて、お裁縫の合間にこうして書いている。

だけど一つ思うのは、
私は伝えたいのではなくて、ずっと何か言いたいのかもしれないということ。

何かを言おうと思った時に、言う対象ははっきり定まってなくて、「伝える」ということから「誰かに向けて」を引いた「言う」がいつも残っているのかもしれない。

「なんか、言いたい!!!」

と地雷が爆発せざるを得なくなったように、心の中でムクムクと言霊が限界まで膨れ上がった時に私は紙とペンを取る。
書いている途中に言いたかった何かを自分の言葉から探し当てるのが好きだ。

でも逆にムクムクと膨れ上がるまでは求められても何も言わないから、言った時にはもう誰にも言葉を求められていなかったりする。
つまり、言うべき時を逃している。

私にとって紙とペンは、「救いの神器」である。
言いたいことを言うべき時に、言うべき相手に言うタイミングを逃した時用の、単なる吐き場所だ。

他のみんなは伝えたいことをどこから持ってきているのだろう。
伝えるってなんなんだろう。

正直この地雷を抱えながら毎日生きるのは超大変だ。
いつ爆発するかわからないし。
手放せるのなら手放したい。
手放したすぎる。

身軽なミニマリストとして生きたいよ
先程、「すっからかんなのだ」と言ったけれど、すっからかんではないっぽい。
何か言いたいのだから。

伝える人は伝えてもらうことを他者に求めているのだろうか。
だとしたら私は誰の言葉も待っていないことになる?

そんなはずないだろう。
私は宇宙にまだゴロゴロ転がってる言葉を探しているし、言葉を知って「はっ!」とたまげて腰を抜かすあの瞬間を恋焦がれてるじゃないかまだ。
今は伝えることを知らないけれど、これから、「伝える」ということを知った時、私の言葉は重力を持つだろうか。
言葉に重力を持たせて、

おだのことば手放したらダメだよ

的なこと、やってみたいな。

むむむ、ここまで言ってなんだかむずがゆくなってきたけど私はまだ半人前で半熟。
固くもゆるくもある黄身に身を置いてる。
悪く言えばぬるま湯に足突っ込んでる。

「言う」「伝える」
この2つ、使い分けできたら面白そうだな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?