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私の論考

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私自身についての自己言及、私の姿勢・考え・感じたこと、私と世の中の関わりについて。平たく言えばエッセイ。
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経営ピンチを発信する休みがちなお店

近所の市場にある、休みがちなお店の話をする。食品販売と飲食店が併設したお店で、一律で昼くらいから開店して平日は夕方には閉まる。週末も21時には完全に閉まる。臨時休業だったり、お客さんが少ないのか早めに閉めている日もある。 市場にある食品販売店オンリーなお店であれば、夕食の買い物を終える夕方に閉店すること自体は納得感がある。 一方で、飲食店としては14-17時くらいに営業していても利用しない。それよりも、夜22~23時くらいまでやってくれる方が利用しやすい。ベッドタウンのた

科学的でなくても認めること

1つ前に投稿した長文を乱暴に要約すれば、「味の素への批判は非科学的だ!」という話になる。 私が許せないのは、科学ではないのにあたかも科学であるかのように主張すること。でも、もとから科学でない信念めいたものは尊重する。 私自身は、牛や豚を食べることに抵抗はないけれど、犬や猫はあまり食べたいと思わない。同様に、世の中には牛や豚を食べない人々がいることは尊重する。科学的に安全が示されて、それが美味しいものだったとしても、無理に食べさせることはしない。 ろくに火を通さずに鶏肉を

時は流れて名が体を表さなくなる問題

何にでも文句を付けるおじさんとSNSで繋がっている。タイムラインには「○○という名前なのに△△なのはおかしい」というツッコミ投稿が流れてくる。「名は体を現わさない」旨のツッコミである。 実際はどんな話題だったかも忘れたくらい些細な話なんだけど、つい私も引っかかって「筆を入れない筆箱や、下駄を入れない下駄箱なんかにも、いちいち指摘するのか?」という旨のコメントを残した。 正直「どうでも良いことを気にするおじさんだなぁ」とは思っていた。このどうでも良い話題について掘り下げてい

売上に悪影響な振る舞いをするお客さんにどう対処するか

お手伝いしている飲み屋さんにやってくるお客さんの話。売上低下やコスト増の意味で商売に支障をきたす振る舞いをする。どのように考えて対処するのがよいのだろうか。 ナイーブな内容とは承知しながら書いております。ご指摘はお手柔らかにお願いします。 客観的な出来事からどのように感じるか?本題となる30歳半ばの男性について、客観的な事実を羅列する。 独りで来店するのでカウンターへと案内するが、複数人用の席を好んで占拠する。 席に着き、飲み屋なのにソフトドリンクだけを頼んで時間を過

マリオカートを通して勝ち続ける意志力を想う

2年前に姉妹でスケートに通わせた。次女の方がスケートが上達すると、長女はつまらなくなって行かなくなるばかりか、妨害しようとまでする。 この現象に再現性があるならば、「子どもがゲームばっかりする」に対する解決策となるのではないか。長女が親戚の家に長期滞在している隙に、次女にマリオカートを叩き込んだ。 ゲームよりスポーツの方が偉いのか?私自身、振り返って「やることさえやっていれば、ゲームにのめり込んでもいいじゃないか」と思っている側の子供だった。 この意味で、子供のゲームを

本ばっかり読む人は自分の意見がないのか?

私は一般的な同世代の人よりも本を読む方だと思う。ステイホーム&在宅勤務の期間は目に見えて読む量が減ったので、週末ランナーならぬ通勤読書家ではある。 職場の近所に引っ越した人や、完全リモートワークを求めて転職した人は、「通勤に片道1.5hもかけるなんて人生を無駄にしているよ」と言うだろう。気持ちはわかる! 人生の優先度をどこに置くかは人によって違い、私にとって通勤時間は受け入れるものの位置付けになった。どうせ通勤時間があるなら有効活用しようと本を手に取る。 別に映画鑑賞で

AIが見せる景色への不満は誰に言うべきか

参加者が2万人を超えるようなSNS上の日本酒コミニュティにて、ある参加者が人気の「新政」に関する投稿をした。 そのコメント欄に別の参加者が「いろんな日本酒と出会いたいのに、新政の投稿ばかりでうんざりだ」という旨のコメントを残した。 どのような感想を持つかは自由だけど、意見を伝える相手と内容は適切なのだろうか?という疑問を私は持った。観点としては2つある。 ①集団への不満を個人に負わせるのは荷が重い1つ目の観点としては、集団への不満を個人にぶつけていること。言われた方は「

制作における「肉って気分じゃないんだよな」問題

夕食は何を作ろうか悩んで、家族に聞くも「別に何でも良いよ」しか返ってこず、頑張ってハンバーグを作って食卓に出したら「肉って気分じゃないんだよなぁ」という言葉が返ってきた。 そんなエピソードが職場で話されていて、その場の人達はおおむね「許せないよね」と作り手に共感していた。 でも、制作の現場では割とよくあり、それなのに作り手への共感は乏しい。ハンバーグ問題に憤慨していた人でさえ、制作の依頼者になると平気でやる。 作った後で変えるのは大変なんですよ書くのもアホらしいくらい当

いわゆるまちづくりが肌に合わない話

いろんな考え方の人がいて、いろんな方向から策を仕掛けるのが健全。というのが私の考えの前提となる。 その上で、私自身が取り組むとしたら、いわゆる「まちづくり」と呼ばれる活動一辺倒になるのは肌に合わないことに最近になって思う。 もちろん、いろんなイベントが開催されることで街に活気が生まれるし、コミニュティのおかげで人と人が繋がるし、共同で使えるインフラが整備されるのも無条件に素晴らしいことだと思う。私自身も地元愛から呼ばれたら参加する。 一方で、「まちづくり」を生業とする人

恩を着せると褒められない悪循環を断ち切るには

娘「言われなくても給食セットを出したよ!ねぇ?偉い?」としつこいので、母「今日はご飯作って洗濯もしたよ?偉い?」父「今日は出社したよ?偉い?」と恩着せがましい家族になった。 みんな偉い!!! 去年、我が家であった他愛ないエピソードを思い出すきっかけになったのは、社外でお手伝いしている接客だった。 大人だって褒められたいいろんな人を相手にしていると、褒められたい欲求は大人だって変わらないことを目の当たりにする。 以前に書いた、お酒を奢る人の中には傍若無人になって驕る人が

なぜ食品ロスはなくならないのか

クリスマスのケーキや節分の恵方巻など、季節商品がたくさん売られては、翌日にはたくさん廃棄される。そのニュースか何かを見た妻子が「なぜ食品ロスはなくならないのか?」と疑問を持っていた。 先日、友人のSNSのコメント欄で詳しい方による議論があり、「そんな観点もあるのか」と感銘を受けたので、その内容を話をした。 この場にも共有したいところだけど、友達限定だし引用も出来ないので、論点を拝借しつつ自分なりに言葉にする。加えて、自分なりに解決策を考えた。 売上の予測が難しいのか?そ

ルールが嫌なら変えればいい

最近はリレーマラソンに向けて練習をしているもんだから、どれだけ寒くても薄着で「屋外の移動は走ればあったかくなるし一石二鳥だ」くらいに思っていた。 でも流石に、先週くらいの積雪になると危なくて走ることもできないし、とにかく寒い。そんな中で「ジャンパー類の使用は禁止する」というブラック校則に縛られる生徒達はかわいそうだなぁと思った。 生徒会長として校則を変えた話中学生の頃、まったく同じ憤りを感じたことがあったことを思い出した。生徒会長に立候補して「防寒具の使用を認めろ運動」を

ブランディング・デザインはモノをつくるオマケにされがち問題

社外でも本業でも、動画をつくる機会が増えた。もっと上手くつくる人なんて吐いて捨てるほどいるし、反対に最近はツールが発達して素人でも動画がつくれる。それなのに「なんでオマエが動画つくってんの?」と聞かれるので言葉にする。 映像を求める人の「こう思われたい」を汲み取って表現に落とし込むことが本質であり、動画をつくるのは手段に過ぎないと捉えている。カタカナで言うと、ブランディング・デザインってやつだ。予算が許せば委託したい程には、動画そのものを自分で手掛けることに執着はない。

感情移入できないと駄作なのか?

映画・小説・アニメに限らず、作品を味わった後で「他の人はどんな感想を持ったんだろう」と探るのは好き。note内でも感想記事を漁ってはスキを付けて回ったりしている。 そんな感想巡りをしていると「まったく感情移入できないので駄作」というような投稿がチラホラあり、「そうなの?」と疑問に思ったので書く。 「感情移入できたか?」は感性によるところなので、人それぞれ判断があってよい。ただ「感情移入できないと駄作」と結論付けることに対して、私は疑問を持っている。 嗜好の方向性だと捉え