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支離滅裂な理屈に寄り添う

癖が強い長女にまつわるイザコザに関して、気持ちを言葉にすることで解決したこともあった。支離滅裂な主張に寄り添って「もしかしたらこういう世界観で説明できるかも」を言葉にすることで、少しでも状況が良くなればよいなという話。

長女のジャイアニズム問題

これまで、枚挙にきりがないくらい長女は次女に対してジャイアニズムを発揮してきた。

・長女と次女に同じように玩具を買い与えても、「私の方がたくさん買ってもらわないと嫌だ」と言い独り占めする。
・長女が歯を磨いてもらっている間、長女は次女が遊ぶのを禁止する。一方で、次女が歯を磨いてもらっている間、長女は遊ぶ。
・次女が高い高いをしてもらって楽しそうにしていると、高い高いして欲しい年齢的でもなさそうな長女は「私の方が多くして」と言う

普通の感覚で考えると「いや、それはおかしいだろ」と言う話ではある。実際、「それはおかしいだろ」と何百回は言うてきた。だけど、言って素直に聞いたことなんてない。

もはや違う正義のに基づいているくらいのすれ違いがある。力づくで聞かせることは容易いけれど、子供が「気に入らないことがあれば力に頼ればよいんだ」と捉えてしまう弊害もある。

時間が解決してくれるのか、何らかのブレイクスルーがあるのか、先行きは見えない。ある程度「こう言う時に長女は言いがかりつける」と予想が付いてきたので、そのような状況を避けるよう配慮してきた。

言葉にすることで改善することもある

最近ようやく長女自身が自分の言葉で紡ぎ出せたのが「ママは妹(次女)を見ている時には笑っているけれど、私(長女)を見ている時には厳しい顔をしている」であった。

今まで長女はいきなり機嫌が悪くなったり、「妹だけズルい!」と言いがかりをつけたり、楽しそうにしている次女を妨害したりしてきた。その行動自体は非難すべきものではあるとしても、上の言語化を踏まえて振り返ってみれば、確かに状況の説明はつく。

言葉で表現できない「嫌な気持ち」を解消しようとするも、その正体もわからないために、余計に嫌な顔をさせるような行動をとる悪循環に陥っていた。それに気づくと、いったん言葉にできれば本人も「笑ってもらえる行動をする」意識ができるし、大人も「叱ってばかりでなく笑いかける」意識ができる。

一足飛びに解消できる訳ではないけれど、少しずつ改善に向かう一歩目として、気持ちを言葉で表現することは凄く大事なことだ。機嫌よく過ごすためにも、語彙や文章力が必要なんだ。

支離滅裂な屁理屈に寄り添う

冒頭のジャイアニズム問題に対しても、「もしかして、こういう世界観だと説明つくんじゃない?」という仮説を立てることはできる。一種のアブダクションを試みる。

「平等」と「公正」で検索すると出てくる、柵の向こうの試合を見る人々の図がある。左図「平等」は、みんな同じように箱が1つずつ分配されるけれど、もともと背の低い子供は箱に乗ったところで試合が観れない。右図の「公正」は、もともと背が高い人には箱を分配せず、背が低い子供に箱を2つ分配することで、全員が試合を観られる。だから公平が大事だよねという話でよく引用される。

少なくとも私と妻は、姉妹を「平等」に扱っている。だけど、長女の頭の中では「公正」ではないと感じていたのでなかろうか。実際に「妹だけ楽しそうにしていてズルい」と言いがかりをつけている。

実際、二女の方が「楽しい」と感じる感受性が高くて、長女に玩具を奪われてガラクタしか残っていなくても、人形に見立てて楽しく遊ぶことができる。その姿が健気で愛らしいのはある。

一方の長女は、同じ玩具を買い与えられても、「楽しい」感情が満たされにくい。楽しさを得る度合いに「公平」を求めるならば、箱を2つ貰う子供と同じで、自分の方が多く施されなければ満たされない!...としたら長女の主張に説明がつく。

公正の線引き、私と世界の線引き

上の節の内容は、長女に寄り添って言語化を試みたものであって、私の信念ではない。「自分の機嫌は自分でとれよ」と思う。

もちろん身体的なハンデや、どう頑張っても超えられない壁に対しては「公正」を保証してやらねばならない。どこまでを「公正」の範疇に含めるかには幅があることを長女の世界観の仮説は教えてくれる。

1. 試合が視界に入ることを保証する
2. 同程度の楽しさを保証する
3. 同じクオリアが得られることを保証する

「3.」はハードプロブレムで保証しようがない。自分の外側と内側の境界に妥当な線引きがあって、同じ刺激に対してどう感じるかという自分内面の問題まで「公正」を保証しなくてよいと考えている。とは言え、私と外の世界の境界についても、明確なようで線引きが難しいことを、鷲田先生は仰っている。

「気持ちの持ちようなんだから自分で解決しろ」問題も実はナイーブで、一昔前までは「鬱は甘え」なんて言われていたけれど、今は見直されている。もしかしたら、気持ちの問題に対して「公正」を保証するのが当然という時代だってくるかもしれない。

まだ解決していないけれど、姉妹間の「公正」「平等」は着眼点として面白いなと感じたし、こちらも議論すれば糸口は見えるかもしれないと期待している。

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