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【エッセイ】春、遠からじ。されど僕は憂う。

ベランダにアウトドアチェアを出して、僕は手に持ったマグカップの置き場を思案した。開いたドアの向こう側、部屋の奥からオペラ歌劇が聞こえる。ホフマン物語、第2幕オリンピア。主人公の詩人ホフマンが過去の失恋話を語り、ついには現在の恋にも破れる物語。第2幕オリンピアでは、精巧な自動人形オリンピアにホフマンは恋する。それがロボットだとも気づかずに。ドイツ出身のスロバキア人歌手パトリツィア・ヤネチコヴァのソプラノが、風に膨らんだカーテンをやわく裂いて届く。結局、僕はマグカップを床に置き、チェアに深く腰掛けた。それからやけに晴れた青空をしばし眺め、山本文緒の短編集を開いた。春が近づいている。

ギィギィギィィ。ネジを巻く音。

「世界がこんな状況なのに無関心でいられるなんて、どうかしてる」と彼女は言った。
プーチンの一連の狂気じみたウクライナ侵攻、戦々恐々とする欧州諸国。役に立たない国連。経済制裁。ブランド・アクティビズム。スポーツ制裁。文化制裁。エトセトラ。原油の高騰。
「無関心なわけがない。大変な世の中なのも分かるし、ウクライナのことには僕だって胸を痛めている。でも、僕にはニュースを見ながら祈ることしかできない」
そういうやり取りの後、丸々1日時間が空いた。スマホを開いては連絡が来ていないのを瞬時に確認し、それから閉じる。そんな俊敏で意味のない動作を何度も繰り返した。
「そうね。私はドイツへの留学を控えているから殊更ヨーロッパ情勢に敏感だった」
「留学だって?」僕は伸びた髭をさする。昔からの癖だ。
「えぇ。来年の春に。第3次世界大戦が勃発していなければ、だけど」
「そうなんだ。僕は留学するなんて聞いてなかったよ」
「話し相手が欲しかっただけなのかもしれない」と今度はすぐに返ってきた。
やはり最初に断っておくべきだったけど、僕らは一度も直接会ったことはない。アプリを通してつながった。毎日毎日液晶画面を通してやり取りを続けた。精巧な長方形のAI人形と会話しているみたいだ。

ギィギィギィィ。ネジを巻く音。

4階のベランダから、すぐそばに立っている電柱のてっぺんが見える。電柱はいくつかの鉄の棒を突き出し、何本もの電線を伸ばしていた。電柱の灰色の立ち姿はだんだんとフィギュア模型の骨格に見えてくる。僕はその骨格に想像上の肉を与え、想像上の皮膚を与え、想像上の目を与えた。人の顔と分かるように鼻と口に当たる部分には3つ穴を開ける。やがてそれは特徴のない僕の顔を模したように変化していく。そのようにして僕は巨人の視点を手に入れた。
窓の向こうからは相変わらず、オリンピアの歌が流れている。生垣の小鳥たちが愛の歌を語りかける。そういう歌詞らしかった。なんでこの歌劇を聞こうと思ったんだっけ?

馬鹿みたいに晴れていた。地平線の向こうにスカイツリーがうっすらと見える。巨人の視点を手に入れたのだ。そのくらい向こうまで見えてしまう。
ずり下がった眼鏡を僕は元の位置に押し戻した。上着はユニクロの薄手のジャンパーだけで充分なほど、外は暖かい。

ギィギィギィィ。再びネジを巻く音。

9年前。クラスの親睦会がラパウザで開かれた。同じテーブルに会した面々ととりあえず連絡先を取り交わす。まだクラスの3割くらいはガラケーの時代だ。LINEなんてアプリの使えない人間ももちろんいて、仕方がないから僕らはLINE IDではなく電話番号とメールアドレスを交換した。僕は薄っぺらいピザを手に取り、ジンジャーエールを飲み、愛想笑いを浮かべながら、始まった大学生活への展望やら楽に単位を取れる時間割について周りの人間が話すのをじっと聞いていた。まだ構内のメインストリートには雪が残っていた。そんな季節を春と呼べるほど、僕はその土地に馴染みがなかった。
二次会は男たちだけで、半地下の居酒屋を半分貸し切った状態で行われた。クラスのどの女の子が可愛かっただの、もしヤれるならあの子だの多分に下世話な話で盛り上がる中、僕は場の主導権を握ることも、話題を変えたくておもしろいことも言えないまま、襖にもたれかかりながらその日ゲットした連絡先の情報登録に勤しんだ。9年経った今でも、その人たちの連絡先はスマホのアドレス帳に登録されているままだ。ただし、もう顔はわからない。誰一人として。まるで幽霊だ。もちろん今更連絡をする気にもならないし、したとしても出てくれるとも限らない。僕のことを覚えているのかすらわからない。なぜ自分の連絡先を知っているのかと相手は驚くだろう。ちょっとしたホラーだ。

ギィギィギィィ。ネジを巻く音。

僕たちにはあまり関係のない出来事だ、とは言い切れないほど世界はひっ迫しているらしい。そして少なくとも僕以上に彼女には関係のある話だ。それでも、僕は彼女に振り回されるにはいささか疲れすぎていた。話し相手が欲しかっただけみたい。彼女はそう言った。彼女にとっては、僕は出来の悪いAIだったろう。やがて返事は来なくなった。

僕は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。酷く目が疲れている。チェアの上で背を伸ばした。そのまま背を反らして部屋を覗く。テレビではYoutubeが流れているままだった。僕は眼鏡をかけ直して、動画を見た。パトリツィア・ヤネチコヴァがスパランツァーニ役の男に持ち上げられて舞台をはけていく場面だった。そうだ。僕がなんでこの歌劇を聞き始めたのか。それは例の彼女がドイツ留学に行くというので、なんとなく「ドイツ 有名人」で検索していたらドイツ出身のパトリツィアがヒットしたからだ。

そして精巧な人形は、壊れたのだ。そう思うしかあるまい。

そして皆、僕を笑うだろう。


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