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表現、涙、言語──泣くと悲しみが消えるのはなぜか

シオランやバタイユのような思想家にとって、涙は奇妙な現象であって、もっとも偉大な聖性やエロスの経験にも通じる、説明不可能な現象であった。シオランなどは、「涙ぐむことこそ福音である」と述べているほどである。シオランの『カイエ』を読むと、彼がバッハやハイドンの音楽を聴いて涙ぐむ姿が浮かび上がるのだが、涙がニヒリストの福音であるとすれば、古典派やバッハの音楽を聴いて涙を落とす瞬間は、「彼のためのものではない」希望や救済のコスモスに触れる経験であったかもしれない。こうした経験は一方ではひとを美学へと向わせるだが、バタイユとシオランは、涙という経験に含まれた至高性を強調した。

涙はなぜ、それが苦痛や悲しみによってもたらされたときにすらどこか心地よく、悲しみそのものを霧散させ、救いの印象すらあたえることがあるのか。バタイユとシオランを失望させると同時に喜ばせたのは、彼らにとって説得的な説明を生理学や機能主義者があたえることができないという事実であった。涙が福音であるにはそれは神秘的なものでなければならない。そのときにのみ、涙は他のものに捧げられない至高の経験でありうるからである。

この観点から興味ぶかいのはヘーゲルが涙を流すという現象についてあたえた(あきらかに生理学的でも機能主義的でもない)説明である。ヘーゲルにとって、涙は至高の経験ではなかった。ヘーゲルはいつものように、他のひとが至高のものを見出すところに、もっとも卑賤なものとの一致を見出す。彼が『自然哲学』のなかで報告していることだが、彼はあるとき天空の星々を皮膚から吹き出す赤い点々、つまり吹出物に喩えてひとびとの不興を買ったことがあった。彼が涙について語るとき、おもしろいことにおなじ比喩を用いて説明をはじめている。

笑うことは周知のように泣くことが対立している。笑う場合には、笑うべき対象を犠牲にして感覚された主観の自分自身との合致が、肉体化されるようになる。ちょうどそれと同じように、泣く場合には、否定的なものによって引きおこされた感覚するものの分裂──苦痛Schmerz]──が表現される[äußert]。涙は批判的な吹出物[kritische Ausschlag]である。

『精神哲学(上)』船山信一訳、岩波文庫、1965年、186ページ。

この引用からはじまるエンチクロペディーの数ページを検討の材料とすることにしよう。

そして、わたしはヘーゲルを一種の「表現主義者」として読みとく。これまで指摘されたことがなかったとおもうが、ヘーゲルの哲学には表現主義的な側面が色濃くある。表現主義の哲学を現代的に定義し直したのはドゥルーズの『スピノザと表現の問題』だが、ヘーゲルの見るからに力動的な哲学が表現の語彙と意味論で満たされていることにはもしかすると驚きはないのかもしれない。ドゥルーズは、ガタリとの共著『千のプラトー』のなかで表現主義の哲学を完成させた。そのマニフェストによると、いっさいは表現であり、表現は地層化と脱領土化という二重の方向をもつとされる。

表現すること、それはつねに神の栄光を歌いたたえることである。すべての地層が神の裁きであるからには、歌を歌い、自己を表現しているのは、何も植物や動物、蘭と雀蜂ばかりではない。岩山も河の流れさえも、およそこの地球の上にある地層化されたもいっさいのものが歌っているのである。

『千のプラトー(上)』宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010年、101ページ。

ヘーゲルはこうした汎神論の立場をとらない。むしろ彼は自然を精神の前提的地層とみなし、軽蔑すらする。ドゥルーズとガタリが抗おうとしたのはまさにこうした思考の前提であって、しかしヘーゲルは、自然から精神へと生成していく過程のなかに、まさにそれと逆行するものつねに見出し強調していたということを指摘できる。この観点からは、ヘーゲルもまた表現主義者である。ドゥルーズの言葉を借りると生成は「一回で二つの方向へ行くこと」である。涙を流すという現象についてのヘーゲルの説明も、これと似た表現の二重性*が認められる。

したがって、涙はただ苦痛の外化[Äußerung]であるばかりではなくて、同時に苦痛の疎外[Entäußerung]である。それ故に涙は、ちょうど涙に溶解しない苦痛が健康に対して有益な作用をおよぼす。涙においては苦痛──すなわち引きさくような対立が心情のなかに入りこんだという感情──が水になる、すなわち中性的なもの・無頓着なものになる。そして、苦痛はこの中性的な物質的なもの[neutrale Materielle]に転化するのであるが、この中性的な物質的なものは心によって心の肉体性から分離される。この分離のなかには、あの肉体化と同様に、泣くことがもっている治療作用の原因が含まれているのである。[186]


*表現主義の哲学において、表現の二重性はそれ自体二重化され、「ダブルバインド」を構成する。この二重の二重化が地層化の原理である。

まず表現にはその内容(表現されるもの)があるというのが一般的な考えである。ドゥルーズとガタリはその内容と表現の位相を実在的に区別されたものとみなす。表現とは、この区別の発生である。そうすると、内容そのものがたんに表現と形式的に区別されるだけでなく、内容の形式と実質が独自に考えられなければならないものとなる。この観点からは、表現自体もまた固有の形式と実質をもつ。たとえば差異としてのシニフィアンの体系と、その音声素材は、表現の形式と実質であり、それはシニフィアンの表現の内容としての意味の体系とは実在的(つまり地層的)に区別される。こうした区別が地層化の原理を構成するのは、表現することがつねに力動的過程であり、生成に属することがらを解き放つかぎりでのことである。つまり、表現は一定の形式化された実質(内容)だけを表現するのではなく、新しい表現の質料を産出するということである。この質料にはいまだ一定の機能が割りあてあられていないという特徴があり、それ自身の連続性をもつ平面を形成することができる(『千のプラトー』「道徳の地質学」参照)。



ひとが涙を流すことができるためには、まず心が潜在的な肉体性を獲得していなければならない。その肉体性(Leiblichkei)の形成を、ヘーゲルはこの引用に先行する箇所で感覚の直接性がまず想起=内化(Erinnerung)されること、そして、その想起=内化された要素がそれ自体自体感受可能なものとなること、つまり肉体化(Verleiblichung)されることという、二重の過程を要するものとして描いている。涙はこの、内面化された感覚的直接性の表現である。

しかし苦痛の表現としての涙には区別される二重のはたらきが属するとヘーゲルは述べている。涙を流すことによって、ひとはその感覚的内面性を単純に表現する。そしてその表現は、表現の内容(つまり感覚的内面性、あるいは心の潜在性)から区別される表現の物質=質料をもたらすだろう。涙の物質的な側面は、いまだ領土化されていない質料である。つまり涙は、苦痛の単純な表現=外化であるだけでなく、その表現性のなかにはその内容の脱領土化が含まれているということ。この疎外は、予期される再充填(アウフヘーベン)をともなわないということを強調しておきたい。しかし涙はそれが表現するものとは異なる平面に降りそそぐのであり、この平面は新たな地層化の方向を示唆するものである。

この点で、ヘーゲルにとって重要な意味をもつのは、涙が眼から出てくるという一見偶発的な事実である。どうして感情を表現し、またその感情にたいして奇妙な浄化作用をもつ涙が、眼から出てくるのであって、背中や腰から出るということがありえないのだろうか。見たところ偶発的な涙のこの身体的所在は、ヘーゲルの説明様式にとって必然的な意味があたえられる。なぜなら眼は、外界を感覚する器官なだけでなく内面を表示する器官でもあるからだ。つまり眼は、心の窓であり、ということはつまり、心をそなえた他者から目視される本質的可能性をそなえているということである。

私がなぜここで眼は心が最も単純な仕方で自己をあらわにする場所であるというかといえば、それは眼の表現[Ausdruck des Auges]は心の絵[Gemälde der Seele]──つかのまの絵・いわば軽くぬられた絵──を表現している[darstellt]からである。そのために人間は、互いに認識し合おうとして、まず互いに眼を見合うのである。[186-187]

このこと──眼が心の絵であるということ──は、複雑な心の内容をもたず、単純な心の潜在性以上のものを知らない動物たちも知っていることではないだろうか。一部の家畜化された動物は、人間の眼を覗きこみすらするし、犬などは、人間の視線を避けようと眼を伏せることがある。ジャック・デリダは、動物が人間をまなざすことはないという西洋の思考の前提を批判したが、この節におけるヘーゲルは、涙を流す人間を、人間をまなざすこともありうる家畜化された動物以上の存在として考えているわけではない。ヘーゲルにとって人間が動物以上の存在になるのは彼が分節化された言語を話すようになってからであり、人間学の記述のこの段階では、人間の心はあたかも人間的領域に地層化されていないかのようである。涙の中性的な物質が降りそそぐ平面は、他者に向けられた地層を示唆するとしても、その質料性は新たな表現の内容となり地層化の原理を構成することはない。涙の平面はヘーゲルの記述のなかでアウフヘーベンされざる堆積層の一部である。脱領土化された質料の再領土化がはじまるのは、涙ではなく、声とともにである。涙の分析に直接後続するのが声の分析であり、ヘーゲルによると、声とともにはじめて、内面化された感覚が真に徹底した脱領土化の過程を開始することになる。

内面的感覚の肉体化および同時に除去は、笑うことや泣くことによって引き起こされるのであるが、それよりもいっそう完全な除去はによって作り出される。なぜかといえば声のなかでは、笑う場合のようにただ現存している外面的なものが形成されるだけでなく、また泣く場合のようにただ実在的に物質的なもの[real Materielles]が引き出されるのでもなく、観念的な肉体性──いわば非物体的肉体性[unkörperliche Leiblichkeit]──、したがって或る物質的なもの[Materielles]が産出されるからである。[187]

声の物質性とは、脱領土化された抽象的な質料のことである。この質料はいまだ意味のなかに降りてはおらず、形式化されていない。しかしそれは、涙の物質性とはちがって十分に抽象化されているので、分節化され、形式化される──つまり再領土化の素材となる可能性をそなえている。

涙は、それが眼から出てくるということ、つまり他者によって目視される可能性をそなえているというのが本質的なことであった。しかし涙は、それが他者に向けられた平面に降りそそぐ質料であるとしても、その平面が領土化されるには声という素材を俟たなければならないのである。意味の構成がはじまるのは声が記号の素材となったときだ。声が記号の素材となることができるのは、それが中性的であるだけでなく、十分に抽象化されたときである。そのとき声の抽象性は、「声を記号[Zeichen]として認識する他の人々にとって、記号になることができる」[188]。

ヘーゲルの人間学に差異として、決定的に人間的な要素──つまり動物に属さない差異──が入りこむのはこの記号という語とともにであるようにおもわれる。声は、しかしその抽象的な質料性だけでは、言語の体系的な意味を構成しないことはあきらかである。なぜなら動物もまた、やはり声を発し、表現するからである。声がこの意味で言語の素材となるのは、それが分節化され、形式化され、意味という地層に属する表現(またはその内容)の実質となったときである。つまりその脱領土化された質料性が言語という新しい地層のもとで再領土化されたときである。そのとき人間の声は、その非物体的な質料性を失い、意味と化す。最高度の抽象性、最高度の脱領土化の速度は、逆説的に、新しい地層化の原理となりうるのである。

動物は自分の感覚を外化[Äußerung]する際に、分節をつけない声、すなわち苦痛または喜びの叫び以上には進まない。そして多くの動物はまた、最高の必要に直面しても、単にこのように自分の内面性を観念的に外化するようになるにすぎない。しかるに人間は自己外化[Sichäußerns]におけるこの動物的な様式のもとに止まっていない。人間は分節をつけた言語[artikulierte Sprache]を創造する。そして内面的感覚は分節をつけた言語によって言葉[Worte]を獲得し、自分の全体的規定性のなかで外化され、主観に対して対象的になり、且つ同時に主観に対して外面的になり疎遠になる[äußerlich und fremd werden]。それ故に、分節をつけた言語は、人間がどういうふうに自分の内面的感覚を疎外する[entäußert]かを示す最高の様式である。[188]


          ★

デリダが「ヘーゲルの思弁的記号学」と呼ぶ領域が最初に予告されるのは、声という抽象的な感性的質料とともにである。デリダはこの領域と人間学の関係を階層的なものとみなしているが、実際には、この階層性はそれと逆行するものの流れの上に積み重なる地質学的なものとみることもできる。ヘーゲルの目的論が起源への遡行であるとき、その遡行は、地層の実在的区別をともなう表現をもつと考えられるのである。声という感性的質料は、デリダにとって、わたしの意識にたいして直接現前する音声であると同時に、他者の意識に直接現前する意味の領野を構成する点で、特権的な隠喩である。しかし声は、その表現性を考慮するならば、歌うこと(リトルネロ)やゲラシム・ルカの吃音詩がそうであるように、意味の地層を脱領土化する過程を加速させる方向をもつことができるからこそ、その上に意味の領土化された地層を積み重ねることが同時にできるのである。デリダの読解(「竪穴とピラミッド」)は、アウフヘーベンが結局は究極の目的を定めまた定められているということを前提としながら、その狙いを逸脱するような意味の質料を狙い撃とうとする。わたしの(表現主義者ヘーゲルという)読解が正しければ、このような逸脱は例外ではなく常態である。言い換えると、アウフヘーベンにたいして脱領土化する意味素は、それ自体新しい地層へ登記されるべき質料となるのであって、これは弁証法の通常の進行であり、通常の進行はだから、それと逆行するものによってのみ可能とされるのである。人間の声が本来的に無意味であるということがなければ、それが意味の地平に登記されるべき表現の質料となることはできなかっただろう。こう語ることは、確かに声が意味を前措定することを受け入れることのようにみえるかもしれない。しかし同様のことは涙という現象についてもいえるのであって、涙という中性的な(しかし十分に抽象化されていない)物質は、その故郷を起源的な大地としてはもたないのである。

ジョルジョ・アガンベンにとって、大地をもつのは動物であって、人間ではない。アガンベンはハイデガーのテーゼを逆転して、人間が世界をもつのではなく、人間だけが世界をもたない、つまり動物は、それぞれの種に固有の「環世界」をもつとしている。

じっさいにも、動物たちは言語活動が欠如しているわけではない。逆に、動物たちは絶対的に言語である。動物たちにおいては、「純粋無垢な大地の声(la voix sacrée de la terre ingénue)」──これをマラルメはコオロギのうちに聴き取って、「単一の(une)」「解体されていない(non-décomposée)」声として人間の声に対置している──は、中断も分裂も知らない。動物たちは言語のなかに入りこむのではない。動物たちはつねにすでに言語のなかに存在しているのである。

『幼児期と歴史』上村忠男訳、岩波書店、2007年、91ページ。

つまるところ動物たちは、ひとつの(それぞれの種によって異なる)「大地」に住んでいるのであり、その声は大地を構成する諸要素を高らかに表現しながら、讃えているのである。それにたいして人間の声は、本来的に無意味なものであり、動物の声が単一の世界の表現であるのにたいして、人間の声は表現の実質として意味の体系にあらかじめ割りあてられて、領土化され、シニフィアンとして分節化され、形式化されているのである。動物は世界=言語=大地をもつ。これにたいして人間は、言葉を話さないでいる期間としてのインファンティア=幼児期をもつのであって、人間は「つねにすでに語る存在ではないために、この単一の言語を分割する」のである。

涙を流すとき、ひとは言葉を話すという事実のなかで領土化されたその外在的な本性を一瞬だけ忘れ、他者のまなざしがその脱領土化された物質を捕捉することで再領土化される危険を犯しながら、意味の重みに沈みこむ以前の自分に固有の声を楽しんでいるのではないだろうか。涙はあきらかに現前的な意味をもたないものでありながら、他者に目視されるという本質的可能性をそなえ、しかも他者によって領土化されることを目的としない「純粋な手段性」の領域にとどまる、「至高性」である。涙を流すときひとは、言葉を話すという事実が強いる忘却という自分に固有の本質的時間を、一瞬だけ忘れ、反対に声を発するときひとは、忘却の時間をみずからの故郷として再領土化する無限の努力を割りあてられているのである。忘却は、人間の努力がそれを根拠とする大地であり、涙はこの大地から人間を一瞬だけ解放する。そこには何の使命もなく、意味もない。

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