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アガンベンと歴史の終わり

アガンベンの政治哲学のなかで「歴史の終わり」というモチーフが演じる役割はもっと注目を集めてもよいかもしれない。アガンベンがはじめて歴史の終わりに言及したのはおそらく『言葉と死』のなかでで、フランシス・フクヤマが1989年の論文でこれを論じて流行させる7年前のことだった。アガンベンはそこでバタイユとコジェーヴのあいだで交わされた書簡に言及しながら、コジェーヴのヘーゲル解釈の試金石である歴史以後の地平についての二人の異なる観点について論じている(これらの書簡はそれから20年後の『

    • 表現、涙、言語──泣くと悲しみが消えるのはなぜか

      シオランやバタイユのような思想家にとって、涙は奇妙な現象であって、もっとも偉大な聖性やエロスの経験にも通じる、説明不可能な現象であった。シオランなどは、「涙ぐむことこそ福音である」と述べているほどである。シオランの『カイエ』を読むと、彼がバッハやハイドンの音楽を聴いて涙ぐむ姿が浮かび上がるのだが、涙がニヒリストの福音であるとすれば、古典派やバッハの音楽を聴いて涙を落とす瞬間は、「彼のためのものではない」希望や救済のコスモスに触れる経験であったかもしれない。こうした経験は一方で

      • ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ──明晰に語りえないことへの哲学的推論の侵犯について

        ヘーゲルは次のように述べている。 一見すると精神的内容にふさわしい形式とは言語表現であるようにおもわれる。ヘーゲルは感覚を表現とみなしていることに注意しなければならない。感覚が精神的内容を表現することができるのでなければ、そこには齟齬が生まれようもないからである。言語表現はまた、感覚内容を表現することもできるということに注意が必要である。ギャップはどこにあるのだろうか。 ウィトゲンシュタイン的なケースを考えてみよう。痛みという感覚をわたしが感じたとする。わたしは「痛い」と

        • ポリクライシス──1970年代の危機との比較

          危機は終わった、後は安心して経済の話をしよう スイス・アルプスで開かれたダボス会議(世界経済フォーラム)の参加者を包むのは驚くほど楽観的なムードだった。インフレは頭打ちの兆しをみせ、景気後退の懸念は依然としてあるものの、2023年の経済見通しは比較的明るいものと考えられた。これはウクライナでの長引く戦争やパンデミックの余波、FRBの利上げにともなって生じるさまざまな懸念(深刻な食糧危機を含む)のことをおもうと驚くべきこと──エリートたちの高山病のようにすらみえる。 他方、

        アガンベンと歴史の終わり

        • 表現、涙、言語──泣くと悲しみが消えるのはなぜか

        • ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ──明晰に語りえないことへの哲学的推論の侵犯について

        • ポリクライシス──1970年代の危機との比較

          社会免疫論 (20230113)

          近代の政治神学の根底には、──ホッブズ、ルソー、シュミット、ベンヤミン、ジラール、ルーマンにいたるまで──免疫の隠喩が横断していることをロベルト・エスポジトは指摘している。近代の社会システムや政治的共同体は、ある種の免疫装置として理解できるのであって、たとえば法システムは社会的暴力にたいする免疫装置であり、国家は戦争という脅威にたいする免疫装置なのである。この想像力の限界は、免疫システムに危機をもたらす原因を敵性因子として理解し、排泄し、排除しようとする、システムそのもの実効

          社会免疫論 (20230113)

          ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(2)

          ペリー・アンダーソン「状況主義の裏側?」 ペリー・アンダーソンが2019年にニューレフト・レビューに発表した「状況主義の裏側?(Situationism à L'envers?)」[1*]は、おそらくアダム・トゥーズの仕事を総体として検討したものとしてはもっとも本格的な論考である。 [1* アンダーソンの記事にはペイウォールがかけられているが、このページからPDFファイルがダウンロードできる。] アンダーソンはアダム・トゥーズの三つの仕事を一体となったものとして読解した

          ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(2)

          ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(1)

          アダム・トゥーズ「中央銀行のパラダイムシフトが起きるところまで来たのか?」 最近アダム・トゥーズのサブスタックを精力的に紹介している経済学101に、インフレをめぐるECBのの対応についての9月17日の投稿が翻訳されており、これがおもしろい記事だった。 トゥーズの記事はダニエラ・ガボールがフィナンシャル・タイムズに発表した記事を批判的に紹介するもので、さらに論点を拡張し、文脈を補足したものである。記事の内容については翻訳された記事を参照されたい。 こうした議論は英語圏では

          ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(1)

          1968年以後という文脈における暴力──サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』

          ジャン=ポール・サルトルとベニー・レヴィの『いまこそ、希望を』は、1970年代を通してフランスの左翼が暴力にたいする知覚を大きく変えざるをえなかったことについての、貴重なドキュメントである。 ベニー・レヴィは1968年5月の学生叛乱の闘士の一人で、当時はピエール・ヴィクトールの名を名乗っていた。中国の文化大革命が1966年に毛沢東の扇動のもとに生じたとき、フランスでは毛に共感する学生たちがマオイスト組織を結成し、ヴィクトールはそれ以来73年に転向するまでフランスの新左翼、通

          1968年以後という文脈における暴力──サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』

          絶滅にふさわしく、ドゥルーズ

           ドゥルーズは『意味の論理学』で「出来事の倫理」を語ったがその後この発想を深化させることはなかった。フーコーが『アンチ・オイディプス』を「倫理の書」と評した読み方が今でも支配的であり、ドゥルーズは奇妙なことに倫理的な哲学者だという風にみられている。しかし彼は生の形式にはほとんど関心を示さず生に生じたことに関心を示した出来事の哲学者であった。彼が信じる道徳の意味はひとつしかなく、それは「出来事にふさわしくあること」の道徳である。しかしこの道徳も、そこに「裁き jugement」

          絶滅にふさわしく、ドゥルーズ

          アガンベンのスキャンダル

          哲学者のジョルジョ・アガンベンが新型コロナウイルスの流行にかんして最初の発言をしたのは、今からおもうと比較的早い時期、2020年2月26日のことだった。彼は「エピデミックの発明」と題した文章のなかでCovid-19をインフルエンザの亜種と断じ、メディアを通じて醸成されていたパニックの雰囲気に釘を指した。彼の目には新しい感染症の流行はさして新しいものではなく、第一次大戦以来というものその歴史的役割を終えていた近代国家権力が、「テロとの戦い」についで危機を統治パラダイムとする絶好

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          ジョーカーとニーチェ──生の肯定を教えることはできるのか

          最近、ニーチェを読み返しているのだけれど、Twitterで上記のTweetがバズっているのを偶然みかけた。たぶんこのTweetは10月31日に起きた「京王線無差別刺傷事件」にかんしてつぶやかれたものとおもわれるが、最初にこのTweetをみかけたとき、ぼくはこの関連に気づかなかった。後から、この事件の容疑者が映画『ジョーカー』に影響を受けて犯行に及んだということを知ったのだが、ぼくがこのTweetを読んだときにおもい浮かべたのもジョーカーというキャラクターのことだったのである。

          ジョーカーとニーチェ──生の肯定を教えることはできるのか

          アダム・トゥーズの政治思想

          私見ではアダム・トゥーズは同時代のもっとも興味深い書き手の一人であるが、そうした評価を少なくとも日本語話者のあいだではまだ受けていないようである。彼は翻訳されている2冊の本──『ナチス 破壊の経済』『暴落 金融危機は世界をどう変えたのか』(いずれもみすず書房)──の著者として知られており、ほかに著作としては『The Deluge: The Great War, America and the Remaking of the Global Order, 1916–1931』(2

          アダム・トゥーズの政治思想

          『天気の子』と物語の代償

           少年に拳銃が与えられたら、その贈与は償われなければならないというのが物語の掟である。ありそうにない組み合わせは社会の秩序を掻き乱すが、そのことによってもとある秩序の不連続性を浮き彫りにする。都会と田舎の対照は新海誠が好んで活用する二項対立的エレメントのひとつであり、田舎から都会に出てきた少年は社会の交換規則の非対称性のなかで何かを喪失しなくてはならない。それが成熟するということの一般的な意味なのだが、物語はその喪失を補填する贈与によって社会が強いる交換規則に抗おうとするだろ

          『天気の子』と物語の代償

          愛がわれらをひとつに引き裂く──ラカンを読む(『対象関係』篇)

           ラカンをどう読むか ジャック・ラカンの分析理論は、混乱した経験を分類し整理することをもくろんだ指標からなる一種の「地図」のようなものである。地図に要請されるのは惑星の軌道を計算する微分方程式のように「現象を救済する」ことではなく、経験に照らして修正可能な「正確な比例」をふくんでいることだけである。ラカンはそのため、マテーム(数学素)とシェーマ(図表)という抽象的な表現様式を好んで用いた。われわれが今回読解の対象とするのは『対象関係』と名づけられたラカンの記録されているセミネ

          愛がわれらをひとつに引き裂く──ラカンを読む(『対象関係』篇)

          反出生主義とジョーク

           人の存在を笑うな トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭──「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。ぼくは以前からこの言葉には違和感があった。むしろ反対ではないだろうか。不幸な家庭は、どこもよく似ている。不幸であるための条件(たとえば貧困)にはある種の客観性があるようであり、反対に幸福であるための条件には主観的な「プラスX」がつねに必要なようにおもわれる。ナボコフの『アーダ』では、トルストイのこの冒頭がパロディにされて、「

          反出生主義とジョーク

          無理数の発見されない世界は可能であったか(『存在論的、郵便的』)

          こんな伝説がある。ピタゴラスは、世界が整数から構成されていると信じていたので、無理数の存在が発見されたとき、その発見者を殺してしまった。この話が示しているのは、ピタゴラスにとって数が知の対象ではなく信の対象であった、ということだ。トーマス・クーンが、近代科学の歴史はパラダイム転換の歴史であったと述べていることは、知識の発展にとって、知的枠組の例外となる要素の発見が、何より大切だということである。ピタゴラスは、この例外を、新しい知的地平を縫合するために用いることができなかった。

          無理数の発見されない世界は可能であったか(『存在論的、郵便的』)