見出し画像

[短編小説]フェニックスの尾

 週末、母が倒れた。認知症の祖母の世話による過労だった。
 姉からその連絡があったとき、私は上田さんと口喧嘩の最中だった。
 きっかけは、パスタを茹でるために入れる塩の量だ。多いだの少ないだのといった他愛のないやりとりが悪化して、それなら自分で作ればいいじゃないのと癇癪を起こした私は、茹でているパスタをお湯ごと流し台へ放った。
「そこまですることないのに。悪かったよ。ごめん」
 苦笑する上田さんに、あなたのせいだと内心で悪態をついた瞬間、いつもの悪い癖が頭をもたげてきた。男性とつきあってもささいなことから面倒になって、なにもかも放棄したくなってしまうのだ。
 私の横に立った上田さんは「あちい、あちい」とつぶやきながら、流されたパスタを指でつまんでザルに入れる。すると、上田さんの眼鏡が湯気で曇って白くなった。
「珠子ちゃんはどうしてそう、いつも落ち着かないの。俺といるのがいやなの?」
「まさか。そうじゃないけど」
 友人の紹介で知り合った上田さんは、優しくていい人だ。それなのに、私の口からは彼を突き放すような言葉が飛び出した。
「やっぱりあなたには、べつな人がいいと思う。もっとちゃんとしていて、素敵な人」
 え、と上田さんは、それまでのにこやかな表情を消し、眉根を寄せて私を見た。これでこの人とも終わったと思った直後、スマホの着信音が鳴ったのだった。
 実家の近所に暮らしている姉から連絡がくるまで、母がそんなに疲労していたなんて知らなかった。昨日入院したらしく、姉が祖母の面倒を見ていたのだが、三歳になる息子のいっくんが微熱気味になってしまったのだそうだ。
「お父さんは?」
「こんなときにかぎって出張してるのよ。明日戻るんだけど、こういうのって重なるのよね。おばあちゃんのお世話、今夜だけでいいからお願いできない?」
「なに言ってるの。もちろん、いいよ。早く言ってくれたらよかったのに」
「珠ちゃん、仕事忙しいじゃない。心配かけるほどのことじゃないから黙ってろってお母さんに言われたんだけど、いっくんの熱が下がらないからしかたなくて」
 これで実家に逃げられる。助かったと思う反面、上田さんがいなくなることを想像すると、真っ暗で空虚な穴に吸い込まれていく感覚におちいった。
 いったいどうしたいのか、自分でもよくわからない。
「珠子ちゃん、どうしたの」
「お母さんが倒れたって。おばあちゃんを見なくちゃいけないから、実家に行くよ」
 上田さんを避けるようにして、下着や洗面道具をバッグに詰めていく。
「それは大変だ。俺にできることはある?」
「大丈夫、ありがとう。今日は帰って」 
 戻ったらちゃんと話そうと、上田さんは言ってくれた。そんな彼の顔をまともに見られないまま、玄関で別れた。それから、月曜日は休むと上司に連絡をした。

* * *


 その日の夕方、まずは病院へいき、母の元気な様子に安堵した。実家に戻ったとたん、いっくんを抱いた姉に迎えられた。
「ご飯は出前を食べたから、なにもいらないわ。昼間はデイサービスで入浴してるから、お風呂も大丈夫。いまはテレビを見てるから、そっとしておいたほうがいいかも。あと、トイレをこまめに訊いてあげてね。おしめをいやがるからしてないの」
「わかった」
 同じことを繰り返すことや、夜の徘徊。さまざまな注意事項をスマホにメモし、しばらく話をしてから姉を見送った。
 リビングにいた祖母は、絨毯の上にちょこんと坐り、テレビを見ていた。私はそっとバッグを置き、ソファに座って猫背の祖母を見つめた。
 おばあちゃん、こんなに小さかったっけ。


 トイレに行かせてから寝間着に着替えるのを手伝い、仏間のベッドに寝かせた。祖母はおとなしく、まったく手がかからない。たいしたことないじゃないのと、電気をつけたままリビングのソファに横たわり、スマホの動画を眺めながらうとうとしはじめていたときだった。
「行かないと」
 慌てた様子の祖母が、仏間から出てきた。
「えっ、おばあちゃん?」
 祖母が玄関に向かっていく。追いかけて腕をつかむと、祖母はその手をふりはらおうとした。
「おばあちゃん、行くってどこに?」
 行かないと、と祖母は繰り返す。こういったときの人間の力とはすごいもので、いくら私が腕を引っ張ってもがんとしてゆずらず、強い力で引きずられてしまう。
 私はあきらめ、調子をあわせることにした。
「うん、わかった。じゃあ、一緒に行こうか。でも、おばあちゃん、寝間着のままじゃみんなびっくりするよ。お出かけする服に着替えよう」
 そう言うと、祖母ははっとしたように自分の寝間着を見て、「そうだねえ、そうかねえ」ときびすを返した。やがて険しげだった表情が和らぎ、明日にしようとなだめると、おとなしくベッドに入ってくれた。
「……あら、どちらさんでしたか?」
 胸がひやりとする。頭ではしかたがないと理解できていても、こういうことはけっこう哀しい。
「珠子だよ、おばあちゃん」
 祖母の目はうつろだった。と、思い出したように目を見開く。
「おや、珠ちゃんかい?」
 祖母の脳は、いったいどんな働きをしているのだろう。
「うん、そうだよ」
 ほっと息をついたとき、祖母が言った。
「きょうは来ないのかい」
「来ないって、誰のこと?」
「いつも来てたじゃないの。お土産に鳳凰さまのようかん持って」
 それでピンとくる。私は血の気の引く思いで、なんとか答えた。
「……うん。今日は、来ないよ」
 祖母は、そうかい、と言って目を閉じた。
 私はふたたびソファに横たわり、毛布をかぶる。そうしてずいぶん久しぶりに、声を殺して泣いてしまった。


 物音で目を覚ます。台所を見ると、祖母が立ちすくんでいた。寝間着のズボンが濡れている。ズボンを脱がし、ぞうきんで床をふいた。それから、浴室に祖母を連れて行く。
「わからないんだよ」
「うん。いいよ。大丈夫だよ。ごめんね」
 どうして私が謝っているのだろうかと思いながら、祖母の下半身に湯をかけた。祖母はされるがままで、なにやらぶつぶつとつぶやきつづけている。タオルで濡れた部分をふき、腰にタオルを巻きつける。それから大急ぎで別の寝間着をみつくろい、祖母に着せているとき、
「珠ちゃん、今日はあの人、来ないのかい」
 突然、また言った。
「……うん。今日も、来ないよ」
「どうして?」
 私は答えず、祖母の手を引いて、仏間に連れて行く。
「今日はあの人、来ないのかい」
 病のせいだとわかっていても、繰り返されて耐えられなくなった。
「おばあちゃん、来ないよ。もう二度と来ないし、会えないの。わかった? わかったらもう言わないで」
「でも、来るって言ってたじゃないか」
 無言で祖母の手を強く引っ張り、廊下を歩く。
「きっと、迷っているんだよ」
 休まらないということがどんなに大変なことなのか、身にしみた。祖母とふたりきりはもうこりごりだ。
「おばあちゃん、お願いだから眠って」
 ベッドに寝かせようとした矢先、なぜか祖母は寝間着を脱いで身支度をはじめた。やがて、衣紋掛けにあった帽子をかぶり、私を見る。
「迷っているんだよ、珠ちゃん」
 もう疲れた。もうつきあいきれない。どうでもいい。
「家に来られないのは、迷っているからだよ。珠ちゃん、迎えに行かないと」
 午前二時。今度は祖母が私の手を握り、引っ張った。
「早くしなさい」
 口調はずいぶん若々しい。まるで私が子どものころの祖母に戻ったような声色だ。
 少しばかり深夜の散歩をしたら気がすんで眠ってくれるかもしれない。そうしたら私も眠れる。そんな気持ちが勝った。
「いいよ、わかった。ちょっと待って」
 パーカを羽織り、祖母について家を出た。深夜の住宅街はひっそりと静まりかえり、空にはくっきりとした三日月が浮かんでいた。
 私の手を引く祖母が言う。
「珠ちゃん。お月さまにはいろんなものが見えるんよ」
「ウサギとか?」
「そうだよ。珠ちゃんはウサギが好きだものねえ。学校でも、飼育係だったもんねえ」
 記憶も意識もはっきりしていることに、驚いた。きっといまだけ、祖母はしっかりしている。これが本当の祖母なのだ。なんだか、祖母に面倒を見てもらっていた子どものころに、戻ったような気持ちになる。
「うん。飼育係してたよ」
「いつもなにかの面倒を見て、偉いねえ。珠ちゃんは本当に偉いねえ」
 大人になってから、偉いなどと褒めてくれる人はいない。なぜだか涙が目に浮かぶ。そっと目頭を指でぬぐうと、祖母の足が早まった。
「おいで、珠ちゃん。迷ってるんだよ。家がわからないでいるんだよ」
 私の手を引いて、人通りのない歩道を行く。オレンジ色の外灯はどことなく暗くさみしげで、この世ならざるところを歩いているような気分になり、恐ろしくなった。
「おばあちゃん、もういいから帰ろう」 
 祖母は歩く。やがて、大きな車道に出る。私は祖母の手を強く握った。
「そっちは行きたくないよ。おばあちゃん」
 祖母はどんどんと歩く。トラックが走り去り、タクシーも過ぎていった。
「おばあちゃん。私、そっちは行きたくないの。帰ろう」
 歩道橋の手前で、祖母は立ち止まった。私にとっては、長い間避けてきた場所だ。見たくなかったので、顔をそむけて目を閉じる。
「いないねえ。おかしいねえ」
 祖母が言った。
「迷ってると思ったんだけどねえ」
「……うん。もういいよ。帰ろう」
 今度は私が祖母の手を引いて、きびすを返す。すると、祖母が言った。
「あら。どうしてここにいるんだい」
 さっきまでのぼんやりとした口調に戻っていた。私は思わず笑ってしまった。
「おばあちゃんがうらやましい」
 私が言うと、祖母もつられたのかにっこりと笑った。


* * *

 さすがに祖母も疲れたのか、ベッドに入るとすぐに寝息をたてた。なんという無邪気さだろう。対する私は、すっかり目が冴えてしまった。
「もういいや。起きてよ」
 冷蔵庫を開けて、缶ビールとたくあん、野沢菜のわさび漬けをテーブルに置く。ビールを飲みながらスマホを見ると、上田さんからトークが届いてた。心配していることが、短い文面から伝わってくる。
 上田さんは優しい。だからこそ、一緒にいると申しわけなさでせつなくなる。
 私ではだめだ。私には、つかえているものが重すぎる。
 いつも、この人とならと思ってつきあいをはじめる。最初は純粋に楽しいのに、頭のすみではどんな終わりがくるのか想像している自分もいる。ふられるのか、それとも……と考えているうちに怖くなり、いっそ自分でだめにしてしまえと、小さなきっかけから終わらせてしまうのだ。
 一生ひとりかもしれない。
 そのほうが、いいのかもしれない。
 返事をせずにスマホを置き、ビールを飲んでいたときだ。こつんと玄関の戸をたたく音がした。
 秒針の音だけがちくちくと響くリビングで、耳をすます。すると、こつん、とまた戸がたたかれた。軽く酔っていたせいで、きっと姉だと思った。いっくんの熱が下がり、心配して来てくれたのかもしれない。
 玄関に向かうと、すりガラスの引き戸の向こうに、外灯に照らされた人影がぼんやりと映っている。やはり姉だ。
「どうしたの? 鍵は持ってないの?」
 ガラス越しの玄関はほのかに明るい。電気もつけずに鍵を開け、戸を引いた。
 姉ではなかった。
 小さな紙袋を持った人物は、黒いパーカを着てデニムをはいており、すけていた。すけていて、すけている口もとをほころばせる。

 ――よかった。これ、渡したかったんだよな。

 まず、恐ろしくて震えた。けれども、あまりにもその笑みが懐かしくて、すがりつきたい衝動にかられ、なによ、と間抜けなことを口にする。

 ――ばあちゃんの好物でしょう。この鳳凰印のようかん。

 穏やかな口調が懐かしい。目を細めると額にうっすらと浮かぶ皺も、右の頬だけひっこむえくぼも、はねあがった寝癖のような髪も、なにもかもが愛おしい。
「す。すけて」
 佐久ちゃんははい、と言って紙袋を差し出してきた。
 受け取っても、感触はない、けれどもちゃんと、私の手からぶらさがっていた。それも、すけている。

 ――よかった。とっくに光は見えてたんだけど、そっちに行ったらこれ渡せないから。だから、ずっと待ってたんだ。迎えに来てくれてよかった。

「む、かえ?」
 佐久ちゃんがうなずいた。どうにもようかんが、渡したかったのだと言う。だからずっと、待っていたのだと言った。
「佐久ちゃん。……佐久ちゃん、だよね? 佐久ちゃんに会いたかった」

 ――うん。

 佐久ちゃんは、そのようかんいつものより高いやつだよと笑う。そして、

 ――それ食べてさ、先にいこう。一緒に、前にすすもうよ。

 どこか遠くからこだまするような声で、佐久ちゃんは言った。かげろうのような姿が、じわりじわりと揺れたり輪郭をまとめたりしながら、静かに私を見つめてくる。
「一緒じゃないじゃない。私、ひとりだよ」
 佐久ちゃんは、穏やかに微笑む。

 ――ひとりじゃないよ。そうだろ?

 答えられなかった。佐久ちゃんは、ごめんな、と私に言う。ごめんな。でもさ、どうやらはじめからこうなるみたいだったんだ。俺さ、最後につきあえたのが珠子で良かった。だから珠子には笑っててほしいんだ。
「……うん」
 すぐそばに、佐久ちゃんがいた。

 ――大丈夫。俺がちゃんと、合図するから。そしたら珠子も、信じろよ。

「うん」
 怖がらないでと佐久ちゃんは言う。とりあえずそれ食え、と言い放つ。そして、ふたたび声にする。一緒に前に進もうと。
「うん」
 うなずくと、佐久ちゃんの笑顔が粉雪のように消えた。あっと手を伸ばしても、渡された紙袋も、なにもかもが、空気に溶けて消えていく。
 手のひらが震えていた。その指を折って強く握り、口に持っていく。かすかに甘い味がした。 


 父が帰ってきた。お土産だと言って、紙袋をテーブルに置く。
「大丈夫だったか?」
「うん。お母さんの大変さがわかった。たまに手伝いに来るよ」
「そしてもらえると母さんも助かるな」
 お土産の包みを開けると、最中とようかんだった。みんな祖母の好物を持ってくる。そう思ったら、なぜか笑みがこぼれた。
 深夜の出来事は、きっと誰も信じないだろう。だから、自分の胸の内にしまっておくことにした。
 恋人を家に連れて来たのは佐久ちゃんがはじめてだったので、祖母には佐久ちゃんの姿が強く残っていたのだろう。もう七年も前のことになる。引きずっていたわけではないけれど、良い思い出しかないから、いつもいろんな男性と比べてしまった。
 姉夫婦も本当の弟のように接してくれていたし、家族ぐるみで良く遊んだ。祖母に連れられて行った場所が事故の現場で、相手はトラックだった。佐久ちゃんのバイクは、ブリキのおもちゃのようにへこんでいた。
「今日はようかんじゃないのかね」
「ようかんもあるよ」
 私は台所でようかんを切る。お皿に載せながら、ひときれ口に運ぶ。佐久ちゃんのくれたようかんを食べているつもりになって、目ににじんだ涙はあくびのふりをしてそっとぬぐった。

* * *

 次の週末、上田さんが来た。
 玄関先でビルケンシュトックを脱ぐなり、
「見て」
 手のひらを差し出してきた。それは、誰かの落とした壊れたピアスの細工だった。羽を広げた鳥の尾が長い。鳳凰だ。
「どうしたの、それ」
「歩いていたら小石が入ったみたいで、立ち止まってサンダルを脱いだらさ、これが足の裏にぴったりくっついてたんだ。こんなものがくっつくこともあるんだなあと思ったら、なんだか捨てられなくなって」
 合図だ、と思った。なぜかそう直感する。
 想いとは、こうして伝えられるものなのだろうか。
「あのさ」
 上田さんが言う。
「無理しないで、ゆっくりやっていこうよ。俺はべつにさ、なにかこう、気の利いたことができるわけじゃないけど、珠子ちゃんといるのが、ときどきとても心地いいんだ。それだけじゃだめだろうか」
「でも……私、すぐに癇癪おこしちゃうじゃない」
「わかってるよ。でも俺、そういうのもちょっと面白いなあと思ってるよ」
 おかしなことを言う。上田さんはにっこりと微笑んだ。
「完璧な人なんていないからさ。だめだめでやってこうよ。俺だってだめだめだもん」
 ゆるい謝りの言葉に、笑みがもれた。そうか。だめだめでいいのか。
「ようかんと最中、好き?」
 うん、と上田さんは答える。
 煎茶を淹れて、ふたりで食べた。大人の味だ、と上田さんがふふふと笑う。私もふふふと笑って、お茶をすする。
 西日が私たちをゆるやかに照らす。お菓子をのんびりと食べながら、記憶の中にある佐久ちゃんの面影が、少しばかり淡くなっていくのをはじめて感じた。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?