the autumn note

 14歳・中学3年生の少年。閉鎖的で息苦しさすら感じる、田舎の小さな街。綺麗な自然が近くにあったかもしれないけど、それすらも思い出せないくらい灰色の記憶。
 そんな居心地の悪い田舎を抜け出す方法はこれしかないと思い、受験勉強に明け暮れる。抜け出せばなんとかなると思っていた気がする。
 そんな中での唯一の救いは、MDに入れた好きなバンドの曲を聴きながら、眠りにつくことだった。

 その夏、そのバンドのライブを初めて生で見た。
 「好きになったミュージシャンのライブに行く」という行為自体、生まれて初めてだった。ましてや田舎の中学生。全く勝手が分からない。
 ただただ遠くから眺めていただけだった。折角見に来たのに、どういうわけかいたたまれなくなって、30分ぐらいで帰ってしまった。勿体ないと親にも叱られた。
 でも、あの音と色と温度を直接感じた。


 10年ほど経った。
 居心地の悪い田舎を抜け出した少年は、中くらいの成功と大きな失敗を経て、夢も希望もない1日をただ並べていくだけの人となった。
 あの頃と同じ灰色の生活で、あの頃と違って少しのお金と重い責任だけがある。

 初めてライブを見た後にそのバンドは活動を休止したが、10年の時を経て帰ってきた。
 チケットを取ろうと何度か試みたがことごとく落選。10年の間待ち続けたファンがどれほどいたことだろう。それはそうだ。自分なんかが当たるはずがない。

 あの夏から15年が経とうとしていた6月のある日。見慣れたプレイガイドからまたメールが届く。
 どうせ今回も当たらない。
 一片の期待もなく、事務的に携帯の画面上で指を滑らせ、落選のメールを開封しようとする。
 見慣れない文字が目に入り、何度も瞬きをする。日頃の労働と不摂生でついに携帯の文字さえも見えなくなったのか。目薬を差し、眼球の奥の奥、後頭部の頭蓋を突き抜けて10m後方に清涼感が染み渡るまでしばし活動を止める。深く呼吸をする。

 再び携帯に視線を戻す。


   抽選結果  当選


 何が起きたんだろうか。

 これは「当選」という意味だろうか。
 実はこの言葉は私のよく知る言葉とはちょっと違って、≪昨日までは「当選」という言葉で「当選」を意味していたが今日からは「当選」という言葉で「落選」を意味する≫みたいなことになっているのではないか。
 かじっただけの知識がふと思考の表層に浮かんできて、そんなことを数秒考えた。


 あるいは、これはフィッシングメールなんじゃないか。その可能性の方がまだ高そうだ。eplusからのメールをこんなに精巧に真似るなんて最近の業者はしっかりしているな。
 しかし、何度読んでも「当選」とある。「決済を完了しました」とも書いてあるし、チケットのダウンロードが可能になる日時も書いてある。せいぜい問合せ先としてイープラスのURLが載っている程度なので、フィッシングメールにしては随分慎ましい。いっそこのURLをタップしてあげようかと思うほど。

 少し時間をおいて隅から隅までメールを見返し、本当に当選したらしいことをようやく理解した。
 こんなことがあっていいんだろうか。別に徳なんか積んでないのに。

 淀んだ血が今までにない速度で全身を何周もしてるような感じがして、少し具合が悪くなった。


 ライブ当日が近づくにつれ、徐々に昂っていくのを感じる。ライブの3日前までグッズを買うのを忘れるくらいには浮かれていた。お盆で配送業務も止まっているようで、ライブには間に合いそうにない。
 別にいい。グッズがあろうとなかろうと、15年越しのこの緊張と興奮は本物で、私だけのものだ。
 台風7号も、予報によれば前日には日本海の方へ行きそうで、胸を撫でおろす。台風の通り道に住んでいる方には申し訳ない。他に良いことがありますように。


 ライブ当日は有休のつもりだったが諸事情で出勤。昼過ぎに仕事を終え、自宅に帰る。
 前日の寝不足で動悸が酷い。1時間ぐらい仮眠しようと横になるが、瞼が余計なところで仕事をする。誰に似たんだ。
 この状態でライブに行って大丈夫だろうかと不安になる。

 初めて行く会場だったので、少し余裕をもって開演1時間前には着くように向かう。
 東京駅で京葉線に乗り換える。無間地獄に堕ちるときぐらい長い連絡通路。数えるほどしか通ったことはないが、いつもは耳が倍に増えた人たちが半分くらいを占めている印象だった。
 この時は様子が違っていて、8割くらいの人がそのバンドのグッズを持っていた。
 ライブTシャツ姿で、険しい顔で仕事の電話をする男性。何かトラブルだろうか。「すぐ会社に戻ってこい」と上司から言われないといいのだが。
 気品のあるマダムも足早に京葉線に向かっていた。グッズは持っていないようだし、さすがに同じライブに行くわけないか。

 京葉線はすんなり座れた。同じ車両内の乗客も8割方そのライブへ向かう人だ。
 ここから海浜幕張まで30分かかる。再び仮眠を試みるがやはり一睡もできない。
 携帯の電池残量に不安があったが、手持ち無沙汰を解消するために、昔MDで聴いていたあの曲たちを再生する。
 八丁堀、新木場、舞浜、新浦安と来た。新浦安には嫌な思い出があるなぁと思いつつ、あとどれくらいで着くか調べる。まだ15分くらいかかる。あと2駅がバカに遠いな。


 いつの間にか寝ていたらしく、目のかすみがとれないうちに海浜幕張に到着した。
 よく見ると、あの気品のあるマダムも同じ車両に乗っていたようだ。そんなマダムも降りる駅、海浜幕張。
 今日のライブはただごとではなさそうだと改めて認識する。

 駅から徒歩3、4分で会場入口に到着した。
 係のスタッフが「会場入口」と書かれた看板を持っているからここが会場入口なんだろう。入口から会場までが、アニメに出てくる豪邸くらい長い。

 でもまあこれでいい。15年も待った。すぐに全部を味わってしまってはもったいない。
 初めて行く会場。場所もよくわかってない。でもどうせみんな行き先は同じ。この流れに従って行けばそのうち着く。焦る必要はない。
 私だけのこの緊張と興奮、周りの騒がしさへの少しばかりの共感、ひどく汗ばむ8/17の夕方。会場入口からの15分の道のり。
 全て少しずつ味わいながら向かいたい。


 会場に到着した時には既に18:00を回っていた。開演は18:30。途中で電車が遅れたのもあるがゆっくり歩きすぎたかもしれない。
 今まで行ったことのある大きい会場といえば、さいたまスーパーアリーナと東京ドームくらいだが、全然雰囲気が違った。フェスなんじゃないかと思うほど屋台が並んでいた。フェスに行ったことはないけど。
 3日前に購入したグッズは案の定当日までに届かなかった。一応別のグッズを会場で買う。

 予定よりも時間がなかったが、狙っていたカレーにありつけたので急いでかきこみ、開演時刻の3分前に入場。まだ外でゆっくり飲み食いしている人がかなりいたが、大丈夫だろうか。

 アリーナ立見Rブロックの、出入口にかなり近いところに立った。入射角でいうと80度くらい。
 開演前のMCの方が良い感じの話をしていた。暑すぎてそれどころじゃなかったのが申し訳ない。ステージにいる彼を直接視認することはできなくはないが、ほとんど見えない。腕を前に伸ばした時の親指の爪くらいか。
 開演してもこんな感じだろう。声と音が聴ければ問題ない。

 「楽しみだな...。」


 そんなことを考えていたらいつの間にかあの4人が登場して周りから歓声が上がっていた。

 集中しなければ、と思っている間にライブが始まってしまった。幸先が悪い。
 予想していた曲とは違う曲のイントロが聞こえてきて更にまごつく。
 私の立っている場所の音響のせいか、私自身の狼狽のせいか、音が分散して聞こえた。何の曲かは分かる。でも音の形が見えない感じがした。焦りはスネアが鳴るたびに倍になる。
 何倍になったか分からなくなったところで、「心配するな」という声が聞こえ、ほどなくして演奏が終わった。

 全部が予想外だった。全てを味わい尽くす準備はできていたつもりだった。
 初めての会場、35000人の観衆。15年ぶりに見る、世界で1番好きなミュージシャン達。通い慣れたライブとは全く違っていた。
 15年前のことだって、ほとんど記憶にない。覚えていることといえば、見終わった後に興奮していたことと、それを悟られたくなくて母親の前で仏頂面をしていたことぐらいだ。
 全部が初めてのライブだった。

 2曲目のイントロ。最初の1音を聴いてようやく落ち着きを取り戻した。今度ははっきり聞こえる。
 痛みを感じるくらいの喉の渇きと、ぬかるみに足を取られて沈んでいくどうしようもなさ。そんな感覚を覚えるリフ。飽きるくらい聴いて、飽きるくらい弾いた。私がこのバンドを好きになった曲だ。
 この曲を聴いて苦しさを感じこそすれ、笑顔でなんかいられるわけがない。その苦しさが声になって溢れ出た。その日は雲ひとつない空だったけど、ただ雨が降るだけだと叫んだ。

「俺たちはもう負けないから」
「死ぬまでにみんなと会っておきたかったんだよな」
「戦って戦って戦って 勝っても負けてもまた会いましょう」

 どこでMCを挟んだかなんて覚えているはずもないけど、あの夏の少年にとっての憧れと、あの夏の少年にとっての救いが、2人でそんなことを言っていた気がする。

 その後のことはもうよく覚えていない。

 しばらくカラオケにも行けてなかったから、声が全然出なかった気がする。
 曲中に手拍子をする人が多くて、すごく邪魔だなと感じた覚えがある。
 真面目な曲の途中で、目がガンギマリになっているベーシストの顔がスクリーンに映し出され、思わず笑ってしまった気がする。
 後ろから走ってきて人を押しのけて中央に向かっていく輩が最後まで絶えなくてイラついた覚えがある。
 昔DVDで見たあの動きやあの癖、今も残ってるんだなと思った覚えがある。

 15年分の想いなんてあったのかどうかももうよく分からないけど、あっても1/10000も吐き出せなかったと思う。

 少しずつ味わいたかった。でもあっという間に過ぎた。

 どんなに頑張っても飛べなかったり。
 名前のない花を摘んで帰って窓に飾ったり。
 最後の勝負がしたいんだって思ったり。
 勝利は敗北と同じだったり。
 目を閉じるだけでたったひとつの天国に行けたり。
 風の日には飛ぼうとしてみたり。
 戻ってこないかもしれないけど13番地で待っていたり。
 笑ったことを思い出したり。
 夏の歌みたいに歌いたいなんて言ったり。
 安物のプレゼントを1000個あげたり。
 閉まるドアの向こうから呼ぶ声に引かれたり。
 音量を上げたり。
 その声が暗闇を切り裂いてくれたり。
 なんとなくこれでいいと思ったり。
 君がいてくれたら何を話そうかなとか考えたり。
 ほんの少しとどまって飛んでいったり。
 簡単な願いごとをひとつしてみたり。
 ようやく君を見つけられたり。
 昨日の終わりにまでさよならを告げたり。
 少し前に手に入れた未来を丸めて投げ捨ててみたり。
 ダニエルを20分以上探したり。


 それだけの2時間半だった。
 全部が懐かしくて新しかった。
 ほとんど覚えていないあの夏。それとも違う初めての感覚。
 ただなぜか、ずっとこれを待っていた気もする。


 花火が終演を告げる。花火を見るのはこの夏2度目だった。
 アリーナを出るまでに20分かかり、汗だくで帰路に着く。
 ライブ帰りの群衆で埋まる車内に、半ば興奮気味で半ば疲れ顔の耳が倍になった集団がなだれこんでくる。
 疲れ切った脚への負担を軽くするために、吊り革に少し体重をかける。
 またあの連絡通路を歩く体力は残ってそうにないと思い、別のルートを探す。
 電車を乗り換えて座れたところで携帯の電池も10%を切る。
 周りに興奮を悟られないように仏頂面をする。
 手持ち無沙汰になり、電車の走る音をBGMに瞼を閉じる。
 どういうライブだったか思い起こそうとする。
 ほとんど何も覚えていなくて肩を落とす。

 世界で1番好きなミュージシャンたちのライブを見た夜だった。
 別に甚く感動したということもない。「幸せ」というと言い過ぎだ。「この日のために生きてきた」なんて言えるほど満ち足りてもいない。むしろ今は真ん中にぽっかり穴が空いてる。
 楽しかった。

 不思議なパワーがあるバンドだとか、このバンドの歴史がどうだとか、あのシーンのここがこのバンドのなんとかを象徴していただとか、ライブタイトルに掛けたオシャレなフレーズだとか、これぞロックバンドだとか。
 そんなエモい言葉は私の中になかった。私にはそんな共感を得るための夾雑な「意味」は必要なかった。
 この想いは私だけのものだ。言葉にせずに、たまに思い出そう。

 ただ世界で1番好きなミュージシャンたちのライブを見ただけ。それだけの夜。
 次の日には忘れて、またライブがある日は仕事を早く切り上げて見に行きたいと思う。
 そんなもんだろう。



 たしかに、私にとって大事なことなんていくつもないかもしれない。
 「ELLEGARDEN」というバンドは、そのいくつかの中に数えられる。


 あ、忘れてた。
 ようやくSummer time is goneです。

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