かなしいときー
時機に遅れた感は否めませんが、渦中の方のコラムを読んで感じたこと+最近の諸々に関して思ったことの備忘です。
特定の人物を誹謗・中傷する意図もなく、逆に擁護するものでもない点、ご理解いただいた上でお読みいただければ。
感想めいたことども
そのコラム、率直に言って非常に良い内容だと感じました。渦中の方については、私は某音楽番組のゲストとして出演されているのをたまに見かける程度で、詳しく存じ上げませんが、可能な限り当の問題や関係者に対して誠実であろうとする姿勢が垣間見えた気がします。
関係者との思い出や関係性、憧れ・尊敬・信頼と悔恨の念。それらの間で引き裂かれる自己をあけすけに晒すことで、当の問題の複雑さと根深さを浮き彫りにしているように思います(そう感じさせることを狙って書かれた文章だとする向きもあるやもしれませんが、私自身はそれはそれで別に良いと考えます)。
しかしそれだけに、(当の問題からは離れるのですが)「批判」が「提言」と対置され、単なる後ろ向きで非生産的な悪しき営みのようにされているように感じられた点が、ひたすらに残念でなりませんでした。
「批判」と「非難」や「誹謗・中傷」とを区別する、というのはよく言われることだと思いますが、最近では(というか昔からかもしれませんが)前者のニュアンスが後者にズレ込んでいることが多いように感じます。
「批判」とは本来、あるモノゴトに対してそれを鵜呑みにせずに一度立ち止まり、その前提にまで分け入って丁寧に吟味することを指す言葉ではないかと思います(※)。いわば、留保と吟味。必ずしも否定的な意味ではありませんし、「非難」のように「責める」ニュアンスはなく、ましてや「誹謗・中傷」のような「けなす」「名誉を傷つける」というニュアンスもありません。
もっとも、実際の生活の中では「批判」と「非難」等が渾然一体となって行われることも多く、これらを截然と区別することは非常に難しい。自らの行いであれば尚のことでしょう。
さて、当のコラムでは「批判ではなく提言」とされていましたが、その方が言いたいことは大要以下のようなことではないかと感じました。
すなわち、 ≪より良い状態の実現のために考えられる方向性を自分の考えとして表明したのみであって、特定の人物や団体をディスってるのではない。≫ ≪問題点の発見・抽出とその解決のための具体的方策の検討は、あくまでも当事者の気持ちにも配慮しつつ、適切な体制と環境下で行われるべきであって、自分はそれを行う専門的能力や知見を持っておらず、それにふさわしい立場にもないから、その状態の実現に向けてひとつの意見を述べたにとどまる。≫ と。
しかし、仮にその方の意図がそうであれば、ここで実現が願われている ≪適切な体制と環境の下で行われる営み≫ こそが「批判」ではないでしょうか。
その意味では渦中の方の意見表明は「批判」そのものではないのかもしれませんが、それはむしろ「批判」に向けた「提言」、「批判」と連帯し協働する関係にある「提言」というべきものではないでしょうか。
そう考えますとやはり、「批判ではなく提言」と述べ、それを見出しにまで使って強調することが適切だったのか、疑問なしとしません。
「批判」を「非難」等と同じような意味で用いることが誤りとまでは言いませんが、よりニュートラルな意味合いで理解される「批判」という営みは、社会に不可欠であろうと思われますので、そのような営みに適切な位置付けを与えるためには、両者を区別して用いる方が望ましいのではないかと思う次第であります...。
※ 哲学の文脈ではありますが、同趣旨の記載として、「日常語では「批判」という言葉には否定的な評価という意味合いが強いが、ここではそれとはちょっと違い、ある意見を鵜呑みにせずによく吟味することを「批判」という。」(伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(ちくま新書、2014)Kindle版84/2940辺り)、「「批判」つまりクリティークとは、非難したり否定的な態度をとったりすることではなく、相手とする主張の論拠やそこからの帰結などについてよく考察し、事の是非を判断することを言う。」(中畑正志『はじめてのプラトン 批判と変革の哲学』(講談社現代新書、2021年)4頁)など。デジタル大辞泉などの「批判」の1つ目の意味も同様でしょう。
自分の周りのことども
(ここからは当のコラムとは全く関係がありません。今更言うまでもないこともたくさん含まれていると思います。)
先に述べたような「批判」理解からすれば、「この点をこうすべきだと思う」などと安易に述べることも「批判」ではないように思います。
というのも、各人が独立して自由に「批判」を行うことは極めて重要なことではありますが、「批判」には少なくとも慎重な態度と論理的思考と豊かな想像力が求められるのではないかと。
例えば、有名人などのファンの一部に見られる「運営批判」という行為。これもそもそも「批判」ですらないと思います。飲み会の席での愚痴や世間話などと何ら異なりません。
そもそも具体的な運営行為に対する吟味を何ら経ずに述べられるものであり、まさに「お気持ち表明」でしかないでしょう。一介のファンはそのような吟味を行い得る能力も立場も時間もない。所詮はコンテンツを享受する「消費者」でしかありません。
しかしここで厄介なのは、その「消費者」という立場に起因する、「自分達はそのコンテンツにお金を投じている」というお客様心理あるいは所有者意識。「自分はこのコンテンツに意見を述べるに値する。」、「これがこのコンテンツにとって望ましい方向だ!」と考えたくなる気持ちは分かりますが、往々にして自分の好みや願望を投影したに過ぎないことが多い。
私は「お気持ち表明」それ自体が悪いとは思いません。しかし、(そもそも適切な言い方だったかという問題もありますが、)以上のようなことに自覚的でないと、運営スタッフを傷つけ、自分の推しを傷つけるだけ「非難」に堕しかねません。推しを直接傷つけるようなものでなくても、運営スタッフが傷つけられているのを見て推し自身が良い思いをするはずがないことは、言うまでもありません。
また、以上とは別の問題として、人はモノゴトを単純化して考える傾向にあるという問題もあるでしょう。これは特に、「お気持ち表明」ともとれそうな他人の発言を前にした際の自分の態度として、留意したい点かもしれません。
言うまでもなく、世の中は極めて複雑にいろいろな物事が絡み合っています。個々人に関しても同じ。他者の行いを見て、「こいつは厄介オタクだ」、「またこういうタイプか」、「こういうやつは話通じないから近寄らんとこ」等と思うことはよくあると思います。人間が生きていく上ではパターン認識(※この言葉の正しい意味に沿っていないかも?)を行うことは避けられません。
しかし、それによってこぼれ落ちるものが極めて多いことには自覚的であるべきでしょう。
カテゴライズやラベリングはモノゴトについて極めて分かりやすい図式を獲得でき、自分の態度決定をする上で非常に有効な手段の1つだと思います。しかし、1つのカテゴリー内での差異を捨象してしまいますし、逆にカテゴリー間での差異を不必要に際立たせる可能性があります。そのカテゴライズ・ラベリングはあくまでも、ある特定の視点から行われるものでしかありません(bと6は形としては似ているかもしれませんが、それらを一括りにして同じラベルを与えることが適切かは時と場合によるでしょう)。
自分から見ると、同じカテゴリーに括られるように見える人たちでも本当に同じことを言っているのか、自分が過去に出会った苦手な人Aの発言と今目の前にいるBの発言は同じ内容なのか、違う点はないか。自分の持っているカテゴライズは今この場でも有効に機能するか。
いわゆる「推し活」に限らず、社会ではそういうことを考えながら生きていくものではないでしょうか。
私の観測範囲の限りでは、この単純化の誘惑に駆られる例は老若男女問わず見られるものです。おそらくは、若い人は経験や知識が相対的に乏しいため、手持ちのカテゴライズやラベリングの種類が少なく、それで間に合わせようするので、過度な単純化をしてしまいやすく、また、年をとるにつれて相対的に知識や経験が豊富になる分、どれかのカテゴライズやラベリングを適用することで一見もっともらしい分節化ができてしまい、かつ、それに自信を持っているため疑おうとしにくくなる、ということではないかと思います(残念ながら私のこの推測もひとつのカテゴライズやラベリングではありますが)。
「そんなことをいちいち考えないといけないのは息苦しいなぁ」、「もっと自由に楽しめばいいじゃん」と思う方もきっといることでしょう。
しかし、その「自由」の意味こそ「批判」に晒し吟味すべきではないかと思います。自分が思ったことをすぐ言えることこそが「自由」でしょうか。
社会という営み、ひとりひとりの人間が関わる営みに参与する以上は、自分の行いがどのようなものであったか、真に適切なものであったかという「批判」的なまなざしを持つこと(少なくとも持とうとすること)は、最低限の倫理ではないでしょうか。
「自由に楽しめばいい」とだけ考えているからこそ、思わぬところで他人を傷つける可能性が大きいと思います。自分に対する「批判」的なまなざしを持ちにくい場面でこそ、そういう意識が重要になってくるのではないかと思います。
両手があいてることの意味を考えるべきではないでしょうか。
というようなことを自分自身の倫理規範として持っておきたい、という話でした。複雑なモノゴトについて、複雑さを保存しながら「批判」に晒す、吟味を行うという営みは、極めて重要だと私は思います。
他人に押し付けるつもりは毛頭ありません。ただ、こういうことに1ミリも思いを致すことはないんだろうなーという人に接すると、私は単純に悲しくなります(この時、私自身も自己批判を忘れ、単純化の誘惑に駆られていることは言うまでもありません)。
万が一この記事に対して「押し付けだ!」という反応をする人がでてきたら、それこそその人が「批判」ができない人であることの証左でしょうね(そもそもネットの端っこにあるこの記事なんて誰も見ないので、そんな反応も出ないとは思いますけど)。
ん?この記事は批判なのか?
ここまで読んだ方はお分かりだと思いますが、私には、慎重であろうとする態度は幾分かありますものの、論理的思考も豊かな想像力も持ち合わせておりません。この記事は、飲み会の席でのぼやき、いやそれ以下の、夜中に悶々としながらつぶやいている「お気持ち表明」の域を出ないことは明らかかと思います。
どうか、「非難」や「誹謗・中傷」だけはご容赦いただきたいところです。
それでは。
【8/11追記】
前に買って積ん読していた本の「まえがき」をたまたま読んでみたところ、私が本記事で述べた内容の一部は「ネガティヴ・ケイパビリティ」という学術用語で捉えられているものに近いかもしれないなと感じました。
その本を読んでまた加筆修正すべき点があればそうするかもしれません。
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