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「定型発達」第12回-「定型発達」は事実より気持ちが大切

#発達障害#アスペルガー   #ASD )当事者から見た普通の人達( #定型発達 )の不思議な特徴とその理由について書いていきます。連載。

・「理解」と「共感」再び
・被害者は間違った考えを持ってもよい?
・三種類の「正しい」

・「理解」と「共感」再び

第1回、あるいはその後にも触れたかと思いますが、定型発達の人は「理解する」という言葉をよく「共感する、同意する」という意味で使います。
彼らは物事を正確に理解することよりも、それを言った人を肯定することを大切だと考えているからだと思います。

なので、よくわからないことについて詳しい質問をしたり、誤った点を指摘したりすると、彼らは自分を否定されていると感じてしまうことがあるようです。
このことがわかってから、質問のしかたには気をつけるようにしています。

・被害者は間違った考えを持ってもよい?

今回、この記事を書こうと思ったきっかけは、とある人のツイートです。(この人が定型発達かどうかはわかりません)

ある問題の被害者達が、その問題に対してセンシティブになり、その結果他の人達への二次被害を引き起こしている、という状況で、そのセンシティブさは過剰である(誤った理解に基づいている)という指摘(やや表現が強い)に対して「この被害者の気持ちを馬鹿にするのはおかしい。非難は一次加害者に対してすべきだ」と言っています。(内容の概略です)

私はこのツイートが、指摘者の指摘内容(過剰なセンシティブさが別の被害を生んでいる)よりも被害者を馬鹿にする言葉(と感じたもの)に強く反応していることに興味を持ちました。

もちろん、一次被害がなければ二次被害はないので、一次被害の加害者は二次被害について免責されるとは思いません。
しかし、この人は指摘内容の正誤より、被害者を否定されたと感じたことを重く見ています。そして、二次被害の加害者(と指摘されている一次被害の被害者)を飛び越し、一次被害の加害者のみに責を問うべきだと述べています。

被害者なのだから、誤った理解をしてもしかたがなく、それによって他者を加害することが免責されるものでしょうか?
私には不思議に思えます。これだと、虐待を受けた子供は他者の虐待をしてもしかたがないと言うことになると思うのです。

こうした、事実より気持ちが優先するように見える( #論理と感情 が区別されない)言動は、非常にしばしば見受けられます。私からは、大変「定型発達的」なツイートに思えました。

・三種類の「正しい」

唐突ですが「正しい」という言葉には、3つの反対語があります。つまり、「正しい」には3つの意味があります。(もっとあるかもしれません)

1.正しいー誤った(=間違った)…「正誤表」
 この「正しい」は単に合っている、という意味です。
2.正しいー邪(よこしま)な…「正邪」
 この「正しい」は倫理的に正しい、「善」の意味を含みます。
3.正しいー悪い…「正しい姿勢」
 この「正しい」は「良い(と思われる)、スタンダードな」の意味です。

「正しいデータ」というときには1.の「正しい」であり、そこには「良」や「善」の意味はありません。「正しい方法で得られたデータ」というだけです。
しかし、同じ言葉で表されているため、これを区別して使う人はあまりいません。「事実」より「気持ち」を大切にする定型発達は、気持ち的に「良い」と思うことが「正しい」ことだと捉えているのかも知れません。

まとめ

一つのツイートをきっかけに、定型発達の「事実より気持ちを大切にする」傾向について考えてみました。
このことによって起こる問題を防ぐには、論理と感情を区別して考えるトレーニングが必要なように思われます。

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注意:この文章は著者の個人的な考えによって書かれています。
「すべての」定型発達の人に当てはまるわけではありません。
発達障害には「ASD(自閉症スペクトラム。アスペルガー症候群を含む)」のほか「ADHD」および「LD」があります。ここではASDである私の視点からの記述のみを行っています。

追記

このツイートの話をADHDの息子にしたところ、ツイートをした人物にADHD傾向があるかもしれない、との指摘を受けました。
息子は「考える前に行動する」傾向がとても強いので、論理と感情の区別自体はつくが、その前に衝動的に発言してしまうそうです。
ツイッターはすぐに書き込めるので、衝動的にツイートして問題を起こしやすいため、あまり発言しないようにしていると言っていました。


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