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過去を学ぶなら、未来のために

今、太っている原因は過去にある。だから、それが不満なら過去の事実を観察して「好ましい結果」になるように今ある原因を取捨選択すれば結果が出る。
 
同じように、現在に不満があるならば過去に遡って事実を観察し、好ましい結果に近づきやすい選択肢を選べば良い。実用的には歴史の知識はそのためにこそ明らかにする価値も、学ぶべき価値もあるはずだ。故に他の知識と同じく、歴史の知識もより良い未来のために「批判的」に使うほうが価値が有るのだろう。
 
ところが、最近は過去の美しい話(事実の検証はしばしばおざなりにされるようだ)にばかりに注目して、自分自身の貧弱なセルフイメージを補おうとする人がいやに目につく。現状を肯定するために怪しげな「歴史」の知識をつまみ食いするのが流行りのようだが、これは知識を現状と自己の「正当化」のために使っているわけだ。あまり有益とは思えない。


 
歴史の知識とはより良い未来を目指して、現在を批判的に見るために用いるべきものであって、過去を飾り立て現在の自分の価値を信じさせるために用いるものではない。


過去を飾り立てるためのものなら、歴史に大した価値はない。ホコリをかぶったガラクタである。押入の奥にでもしまいこんでおけばいい。引っ越しの時に、何十年ぶりかに発掘される小学校の卒業アルバム程度の価値しかない。ちらっと眺めて「こんな時もあったよね」と思えれば十分だ。
 

歴史を学ぶなら過去の結果としての現在に納得するためではなく、未来の原因としての現在をより良く変えるために。


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