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好きの反対は無関心なのか

「好きの反対は無関心」と言う人がいる。
この言葉はマザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心」からきているものだ。

「好きの反対は嫌い」を否定する形で使われる達観したようなこの表現に違和感がある。今回はこの違和感を解消するためにちょっと深掘りしてみる。

「好きの反対は無関心」はこのように表せる。

このとき「嫌い」はどこへ行ったのだろう。
無理やりこの中に入れるなら、嫌いの末端が無関心ということになる。

これはおかしい。
どうしても嫌いで憎いものほど、無関心とは程遠いからだ。

では、無関心の反対を考えてみよう。

無関心、言い換えて関心がないことの反対は関心があることである。
これは正しいので、「好きの反対は無関心」は「無関心の反対は有関心」で否定することができる。

そして、好き・嫌いといった感情は関心のあるものからしか生まれないのでこのようになる。

おそらく、この関係性が正しいのではないか。
もう少し俯瞰してみると、知っている・知らないといった尺度も出てくる。

「好き・嫌い」「有関心・無関心」「知っている・知らない」の関係が整理できたところで、「好きの反対は無関心」の違和感はどこにあるのかを探ろう。

ひとつは言葉足らずである事。
「好きの反対は無関心」は正しくは「好き(と嫌い)の反対は無関心」である。「好きの反対は嫌い」の嫌いを無関心に置き換えることで言葉のインパクトはあるものの、正確性に欠ける。

ふたつは対比できないものを対比していること。
絵に描いたように、好きと無関心をひとつの尺度で比べることはできない。しかし、反対という言葉を用いて二項対立の形式にしているため言葉の認識が捻じ曲げられている。

ここまで「好きの反対は無関心」の違和感を深掘りをしてみたが、表現として正しいとは思わないものの、この言葉を使うことに大した問題はないと思う。多くの場合、人は何かを好きになってもらうことを目指しているので、嫌いの反対が無関心であることまで示す必要がないからである。

しかし、「好きの反対は無関心」の構造を理解せずに、この言葉を使うのは危険だと感じる。それは、好きと無関心を1つのライン上で扱ってしまうかもしれないからだ。

好きと同じライン上にあるのは嫌いであり、無関心と同じラインにあるのは有関心である。この認識を間違うと、「無関心な人を好きにさせよう!」とか「嫌いな人を有関心にさせよう!」みたいな飛躍したアプローチをしてしまう可能性がある。

「嫌いな人を有関心にさせよう!」を例にとると、「嫌いだから見たくないのに、めちゃめちゃ広告が出てきてもっと嫌いになる脱毛広告」みたいなものは身に覚えがないだろうか。

表面上だけの理解で「好きの反対は無関心」を使うことはさらなる「嫌い」を引き起こしかねないし、一度嫌いになったものは簡単に好きになることはないので気をつけた方が良い。

他にも日常的に使っている言葉で違和感を覚えたら深掘りしていきたい。


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